感覚のこと その一
感覚というのは限りなく広く深い世界でいい尽くすことはないと思います。感覚というのは意識することが出来ず、ほとんどが無意識裡のことですから整理しようにも手が出ないというところがあるのです。
感覚のことで興味深いのは、ある感覚能力が欠けている人を見ることで浮き彫りにされることがあります。たとえば視力のない人は、その分他の感覚能力が研ぎ澄まされるということです。目が見えないことで、目が見える人以上に音に敏感になります。敏感と言っても漠然としているので具体的なことを言うと、人の足音に対して敏感になります。足音で誰かがわかるのです。同じ人の足音でもその日の健康状態、心理状態なども感じ取れるのです。声にも敏感になります。ある人の声を聞くだけで今日のその人の健康状態、心理状態が見抜かれてしまうのです。フランスで戦時中にスパイを見抜くために盲目の人が会議場の入り口で参加者一人一人に挨拶をして、実際にスパイを暴き出したことは有名です。目が見えないということで日常生活に不便を感じることはあるのでしょうが、だからと言ってそれが人間として不自由なのだという結論にはならないのです。むしろ自由の可能性を拡大しているとも言えるので、普通に備わっている感覚からマイナスされているのではなく、このマイナスに見えるところは感覚そのものの可能性を広げていることでもあるのです。
痛覚がない人は少し特殊かもしれません。痛みを感じないわけですから、痛みという感覚体験に強烈な憧れがあって、一回でもいいから痛みを味わってみたいと、高いビルから飛び降り自殺をしたりすることが報告されています。熱を感じない人は火が熱いことを知りませんから、火に直接手が触れても、熱さを感じないのですが、熱は皮膚を侵しますから、大火傷をしてしまうのです。火傷には痛みが伴いますから、大火傷をして初めて火傷をしたことに気づくのです。しかし熱いと言う体験はともなっていなのです。
感覚は周囲からの刺激に対して反応し、そういうものがあるのだと知らしめてくれるので、私たちの体験を豊かにしてくれるものですが、一方で感覚は私たちを守っていてくれるものだということが先ほどの例で分かります。感覚は私たちにとって外界に向けての防波堤でもあるのです。
もし人間が感覚能力を全然持っていなかったらと想像してみてください。人間は自らの存在に気づくことはないのです。今私は生きているということを無意識に教えてくれているのが感覚だからです。感覚とは情操や感性を磨いてくれるというよりも、まずは存在していることを教えてくれているのです。
ある感覚のために開発された器具を使って訓練しても感覚の発達には大して役立たないと思います。むしろ逆効果であることが多いように感じています。それは感覚というものの内容を一面的に理解しているからです。平衡感覚を育てるための訓練器具がありますが、それを使うよりも石ころや根っこで歩きづらくなっている山道を歩いているときの方が、体のバランスを取ろうとして平衡感覚が起動し始め、それによって平衡感覚が鍛えられるのです。器具を使ったなりの効果はあるのでしょうが、局部的訓練のような気がします。やはり大自然の中で研ぎ澄まされてゆく方が、体全体に感覚能力が広がるのだと考えます。