感覚のこと その二。シュタイナの十覚論。

2025年3月24日

ここではシュタイナーが扱う触覚と自我感覚を見てみようと思います。

この二つの感覚は非常に親近性のあるものです。この二つを結びつけているのは、人間存在です。自分がいる、相手がいることを感じる感覚ですから表と裏と言ってもいい位のもので、対をなすものです。

触覚は自分の周囲にあるものに触れた時に皮膚への刺激を通して働いている感覚です。目の不自由な人が部屋の中を移動しようとする時、手探りで自分の周りに物があるかどうかを探ります。目の見える人も部屋を真っ暗にするか目マスクをして視覚を遮断するすると追体験できます。手や体に何かぶつかるとなればそこに物があると言うことです(皮膚がものに触れたところから神経系にどう運ばれるのかはここでは省略します)。

物がここにあることをわからせてくれるのが触覚の大きな働きです。触覚は手触りとか感触ということと混同されています。圧がかかることも触覚と理解されています。展示なども触覚で読んでいるとされています。ところが、ものの表面の感触は触覚も働いていますが別の感覚とのコラボです。つまり純粋に触覚が何をするのかといえば、そこに物があるということを知らせることです。と同時に、わかりにくいかもしれませんが、自分がここにいると知らしめているのです。感覚的観点から自分を感じられるのは、触覚によるのです。

触覚は実際には色々なものとコラボしています。先ほどの圧迫してくるもの、ものの表面の感触、水や空気の温度、嗅覚、そして視覚までもが、ものに触れると言うことから発生している感覚なので、全ての感覚が触覚的な感覚と言っても過言ではないのです。私たちが物質環境にいる限り触覚が大活躍していて、触覚を基本中の基本の感覚と言えるるのです。結論的に言うと、触覚を純粋に取り出して考察すると言うのは、他の感覚との結びつきがあるため難しいもので、そのためかえってわかりにくくなってしまうものなのでシュタイナーは初めて感覚についての論文を表したときに、触覚をあえて外したのです。

ここを少し補いますと、シュタイナーの感覚への発言では十二の感覚が扱われていることは知られています。ところがシュタイナーが1910年に著した、「断片的人智学」の中で感覚のことに一章を費やしているのですが、そこでは十の感覚しか扱われていなかったのです。とは言っても基本的には十二の感覚とほぼ同じで、三つと四つのカテゴリを組み合わせたもので、ただ二つの感覚を始めの段階では扱っていなかったというだけのことで、二つの感覚論があるということではありません。なぜ初めて感覚を扱うときに二つの感覚に言及しなかったのか。その理由はこの二つが全ての感覚を包括しているものだったからです。ですから意図的と見ていいと思います。触覚と自我感覚の二つがまだ純粋に他の感覚と区別できていなかったと言うことかもしれません。

さて自我感覚ですが、これは触覚のように直接物質的なものに触れることなく機能する感覚です。それを感覚として扱っていいのかは判断が難しいもので、否定的に答える人もいると思います。ただ感覚を理解すると言うのは、刺激に反応するそのための器官があるかどうかではなく、その背後の世界観です。例えば五感と言うのは陰陽五行思想という世界観が背後にあって生まれた考え方です。五感というのは感覚能力を数え上げたものではなく、世界観を理解するための補助的なツールと見ていいものです。

十二感覚を取り上げるシュタイナーもよく似ていて、感覚能力を数え上げたものではなく、十二が持つ意味に対応して感覚能力を説明します。ですから痛感覚という一般に感覚的に扱われるものが足りていません。その代わりに思考感覚、言語感覚が存在します。

自我感覚ですが、自我という言葉に惑わされてしまうのですが、この感覚では相手を感覚しているのです。「相手がそこにいる」ということを知らしめているのです。触覚は「自分がここにいる」でした。自我感覚は「相手がそこにいる」となります。人間と言うのは、相手の存在感も含めて、相手を感じながら生きているものなのです。何かの事情で一人で生活している人が、相手を感じることなくいれば、自我感覚は作動しないことになり、だんだん自我感覚は退化してしまいます。真っ暗な洞窟に紛れ込んだ魚が光を感じることがなくなってしまった結果、目が退化してしまうようなものです。

感覚を通して感じていると言うのは、基本的には私たちの存在に関わっているものです。感覚を豊かにすると言うことは、生きていることを充実させるために欠かせないものだと言えるのです。自我感覚が退化して仕舞えば、その人の人生の中に相手がいなくなってしまうのです。相手と言う存在は私たちの無意識を形成している立役者ですから、私たちから無意識がなくなってしまうと言うことで、そうなると顕在意識だけの世界で生きることになるので、判断したり、整理したりコメントしたりすることが人生のほとんどになってしまうことになり、ついには発狂してしまいます。人間は無意識に支えられていると言うことは、相手に支えられていると言うことなのです。自我感覚は相手を感じさせながら私たちを守ってくれていると言うことで、自我感覚なのです。私たちは自分がいると感じながら相手がいると感じることで、精神生活を含めた生命活動を全うしているのです。

 

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