色々な日本

2025年4月4日

私は講演活動を通して都道府県全部を回りました。北は北海道から南は沖縄までで、一度しか行ってないところもありますが二十回以上のところもあります。

観光旅行ではなく、講演会のためでしたが、旅行パンフレットに載っている名所旧跡などにもその土地の人に連れられずいぶん回りました。かえって土地の人が自慢するところに連れてゆかれたりしたので、パンフレットには出ていない穴場にもずいぶん足を運んでいます。その度にその土地に生きている人と繋がったような気がしていました。

旅行での楽しみはお食事です。味覚を通してその土地の人が食べているものに直に触れた気がします。料亭やレストランというところにも連れて行っていただきましたが、その土地の人しか知らない珍しいところで珍しいものを沢山食べさせて頂きました。美味しいとか口に合う合わないではなく、その土地で食べ続けられているものに接するのはなんとも言えない喜びです。

五月が来ると七十五歳になりますが、日本のどこに行きたいかと聞かれると困ってしまいます。行っていない所をあげるといくらでもあるのですが、私は講演会のための移動によってその土地に生きている人たちと接してきたので、風光明媚なところというよりもっとディーブなところをその土地の人を通じて感じていたので、それ以上のものは普通の旅行をしても得られないだろうと勝手に決め込んでいるので、今更行きたいところと尋ねれても思いつかないというのが正直なところです。

現代の特徴の一つは、膨大な旅行人口だと言われています。年間に二億人に及ぶ規模で世界中の人が世界のどこかを旅行先に定めて動いているのです。かつての民族の大移動とは違い、行先の土地に根っこの生やさない、根無草の世界移動です。一般的な情報を手がかりに、旅行会社が組んでくれるパッケージに合わせて移動するパターンが多いようです。

そうしたプランに基づいた旅行を悪くいうつもりはないのですが、私はそれに参加することを今まで一度も考えたことはありませんでした。これからもないと思います。理由は簡単で、私にとってそれは旅行の楽しみが十分ではないからです。ある所に着いても迎えが来ていないなんて考えられないのです。「よくいらっしゃいました」と言ってもらえないなんて、その土地から迎えられていないと感じてしまうのです。見ず知らずの人間としてその土地に着いて、見ず知らずの人間としてその土地を去ってゆくのですから、私には手応えのない旅行に思えてならないのです。

若い時には「知らない街を歩いてみたい。どこか遠くに行きたい」という歌のような、孤独な旅行に憧れたこともありましたが、今思うとただ場所を変えただけのことのようで、それを旅行と言っていいのかはわかりません。孤独から解放されたくて旅に出たのに、旅先ではもっと孤独でした。人が恋しくなったことが何度ももあります。

昔も今も人生を旅に例える人は多いようです。私にはあまり実感のないものなのですが、芭蕉の絶句と言われている「旅に病んで夢は枯れ野をかけ巡る」などを読むと、私なりに健康にこの旅を終えたいものだと思ったりもする今日この頃です。

 

 

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