こころのこと
こころは人間にとって一番重要な問題だと思います。
物質世界にどっぷり浸かった肉体と精神的な霊の世界のと仲介役を演じているからというのもその理由の一つです。そのためにどちらからも引っ張られてしまうわけで、ある意味では不安定な状態を余儀なくされ、そのため理性に沿って学問的に整理しようとすると、分かりにくくなってしまいます。
分かりにくいから重要だというのではなく、こころを持つことで人間になるからなのです。
一般的な見解からすると、こころは脳にあるとされます。特に前頭葉で作られると言う方が後を絶ちません。しかしそれは説明を容易にするための逃げ口上のような気がします。また日本ではよく耳にする霊魂という言い方に注目してみると、霊と魂、つまりこころとが渾然一体となってしまっていて、その区別がつかなくなっています。一霊四魂という言い方が浸透ではされていて、れいという元締めが四つの魂を収めているという世界観からきていますから、霊と魂も元々は別物として捉えられていたものです。
こころは日常的には感情全体として理解されている場合もあります。
何がこころなのかと言われると答えに窮してしまうのは私だけではないようです。
シュタイナーにとってこころの存在は格別なものでした。ある講演の中でこんなふうに言っています。山の上から下界を鳥瞰しているのは霊的な立場の人たちで(彼は神智学的と言っていました)、地上にあって下界を研究しているのが自然科学者たちだと言った後、シュタイナーの人智学については、山の中腹にいて上を見れば霊の世界があり、下を見ると下界が見えると説明しています。と言うことは人智学は自然科学的てもあり霊的な立場の人の様でもありということで、見方によってはどっちつかずと言うことにもなりかねないものですが、その中間の位置していることから視野が広がるとも考えられます。きっとどっちつかずというところが自然科学者からも人智学の理解を難しいものにしているのかもしれません。まさにこころのあり方そのものです。
またあるときは、はっきりと、「私は心のあり方を明かしたいと思っているのです」と言っていますから、人智学というのはこころの世界を明らかにしようとする独自の学問のようです。初めに言ったように、こころはとても不可解で、不安定なもので、輪郭を付けて整理することに慣れている現代人にはわかりにくいものですから、人智学も同様になかなかわかってもらえないものなのかもしれません。
西洋の伝統に目を転じると、そこではこころを知情意と分けています。知情意と並べた時一番わかりやすいのは、知の部分です。知識とか知性とか知的とかいう時の知です。特に現代社会を見ると知の部分が突出している社会です。そこでは知が一番の関心事です。知的なものは知能テストなどが考案されて測ることができると思われています。もちろん測るとは言っても限界はあるのでしょうが、とにかく数字になって表されるものですから安心できるのだと思います。あるいはグラフにして示したりすれば視覚的にも捉えられます。しかし感情はどうでしょう。数字は期待できません。蓼食う虫も好き好きの様なものですから、せいぜい幾つかにグループに分類されたりしている程度です。さらに意志となると全くお手上げなのではないかと思います。ドイツの哲学者シューペンハウエルは意志は知は思考のもとで明晰なものですが、意志の動きは盲目的と言っています。もちろん意志の強い人と意志の弱い人があることくらいははっきりしていますが、それ以上のこととなると混沌としてしまいます。シュタイナーは知情意という捉え方を認めた上で、実際には知情意は三つ巴の様な形で心の中で絡みあつて存在しているといいます。そうなると今日のように知的なことに興味がある時代は、心の中の知の部分を無理やり抽出してそこに焦点が当てられる傾向が出て来るもので、他の二つは整理がつかないので影を潜めてしまいます。もしかすると知というのは物質的なものと結びつきやすいのかもしれません。となると意志は霊的と言うことになるのでしょうか。シュタイナーはこのところをはっきり認識していたので、彼が提唱した教育では意志を育てる必要性を強調しています。
精神主義者たちは物質中心に考える人たちのことをよくいいません。反対に物質世界にしっかりと根っこを張って生きている人たちは精神主義者たちのことが地に足のつかない人たちと見ています。二つの世界の間を行き来できる様になることが望ましいのです。ギリシャ神話の中に登場するヘルメスは地上と性の世界の間を自由に行き来できたと言われる神様です。一番こころの本質を表している神様なのかもしれません。そして不思議なのはこのヘルメス神は他にも色々なことをつか取っているまるで万能の神のような存在なのです。こころも本来はそのくらい自由奔放に生きられるものなのだと思います。そのようにこころをもっと広い視野から捉えられるようになると、こころの存在がはっきりと浮き彫りになってくると思います。こころは誤解されているのです。こころの中途半端は実は大きな存在意義があるのだと言うことがわかって来ると、人間観が大きく変わると思っています。今はまだ物質の世界と霊の世界は残念ながら水と油のように相容れない様です。
こころのあり方が少しは見えてきたのではないかと思います。綱引きの綱のように強い方に引っ張られてしまうものなのでしょうか。こころの働きはこの二つの力からの影響だけから捉えられていいものではなく、こころ本来のあり方を見つけなければならないのだと思うのです。心理学のように学問的にアプローチされるのも大切なことですが、こころはそれ以上のものだと思っています。深層心理学や無意識という言い方で、こころの見えないところ、不可解なところを説明しようとしているのでしょうが、こころを説明する言語を人類はまだ見つけていないのかもしれません。
こころをこころと感じるためにはどうしたら良いのでしょうか。純粋にこころに耳を傾けたらどうなるかと言うことです。