上達より初心
フリッツ・ヴンダーリッヒというドイツのテノールで興味深い経験をしました。彼は不慮の事故で35歳という若さで亡くなったドイツのテノールです。おそらくドイツのテノールの中で今でも人気があり、彼の命日にはラジオでは必ず追悼の番組が組まれています。
シューベルトの「水車小屋の娘」という歌曲集を二回録音しています。一回目は28歳の時、もう一つは亡くなる年の35歳の時です。彼は不慮の事故で35歳で亡くなっていますから、二回目の録音が最後の録音ということになります。
28歳の時の録音は若いテールの声がみずみずしく何度も聞きました。35歳のものに比べると歌手としてようやく一人前になって初めて録音の機会を得たものですから、専門的に比べると色々な面で見劣りするのでしょうが、魅力あふれる録音なのです。
歌心というのは持って生まれたものなので、練習して上手になるものではないと思っています。歌心という点で比べると、一番目の録音の素直さとみずみずしさとは格別で、7年後の録音にはない初々しさがあって聞いていると直接訴えかけてきます。
専門家の批評とは別で、私にはまさにそこが彼の歌心がはっきりと垣間見られるところに魅力を感じているのです。35歳の時の歌は表情付けなどの擬出的な部分は聞き所があるのでしょうが、歌そのものが上手になったかどうかは別の話です。二つの録音のもう一つの違いは声の質です。二回目の録音の時は声の質が7年前の瑞々しさを失っていて、声にざらつきのような荒さが感じてしまうのです。きっと本人もそのことは気づいていたのだと思います。それを歌唱力というテクニックでカバーしようとしているようなのです。それを一般には歌唱力に関して成熟したとかいうのでしょうが、私は首を傾げてしまいます。進化というよりもむしろ退化しているように聞こえるのです。この7年間に彼は世界中を飛び回り、世界中のオペラハウスで歌い続けていたのです。それは歌手としての名声には大きく貢献したのでしょうが、声にとっては過酷だったに違いないのです。声はみずみずしさを失っていました。そして生来の歌心よりも見栄えのする歌唱力で張り上げるように歌ってしまうのです。
同じことはスウェーデンの歌手、ユーシー・ビヨグリングの場合にも感じています。28歳の時に歌った歌を53歳の時に歌っているのが録音で残っていますが、53歳の敵の録音では往年のみずみずしさがすっかり失せて、乾いた声が張り上げて歌っている姿は哀れに思えてならないのです。ベートーヴェンの「アデライデ」を歌っているですが28歳の時の天に向かって羽ばたいてゆく初々しい声と歌心は53歳の時の歌には聞く影もないのです。彼も歌いすぎたのです。世紀の美声と言われたので、世界中からオファーがあったのでしょう。でも結果的には歌いすぎたのだと思います。歌は歌えば歌うほど上手くなるとは限らないのです。
初心ということを芸の世界では言いますが、この二人の素晴らしい歌手があるところで初心に帰らなければと気づいて立ち止まっていたら、末長くみずみずしい歌声が維持できたのではないかと惜しまれてなりません。残念ながら西洋には初心に帰るという考え方はありません。
職人さんの世界では、初心と熟練とは矛盾したものです。修行に入ったら早く仕事を覚えなければなりません。機械のように正確に百個のお茶本を作ったらいつも同じものができ出来なければならないのです。しかしそれがいつしかマンネリになってしまうという繊細な世界です。そんな時に初心を思い出して奮起できるかどうかは、その先の仕事ぶりに大きく影響するものだと思います。
初心と熟練の間を行き来できるなんて、職人の世界というのは実は哲学によって支えられていると思わざるを得ません。仕事という具体的なものを通してそれを体験できるなんて幸せな人生体験です。