向こうからやってくる感覚
ドイツの詩人、クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩の中に、目標を持たないようでは人間ではないと言った内容の詩があります。目標に向かって生きるのが最も人間的という解釈に基づいているのでしよう。ドイツの人たちは概ねこの考え方が好きなようで、この詩をいろいろな機会で引用していますが、私は違和感があって好きになれない詩です。クラーク博士が言ったBoys be ambitous、少年よ大志をいだけのようなものでしようか。ああなりたい、あれが欲しいというような目的意識で人生を生き抜くことを多くのドイツの人は良しとしているようです。考え過ぎかもしれませんが、目的のためなら手段を選ばずということが正当化されてしまいそうなところが少し怖い世界です。
私は目標や目的に向かってとは別の生き方をしてきたようです。向こうからやって来るものに身を任せるというスタイルです。週末の野菜市に買い物にゆくと気に入ったものを自分で選んで買う人がいますが、私は、これくださいと言ってお店の人任せで買ってきます。騙されて元々と思っているのかもしれません。かえって一番いいものを選んでくれていたのかもしれません。
若い時のことを思い出すと周りには一生懸命自分がやりたいことを見つけ、それに向かってガムシャラにやっている人もいました。もちろん受験勉強などもその一つです。それはそれて見ていてスカッとしていた記憶もありますが、私には無理でした。好きなことをやってのんびりしいるか退屈していたのですが、それでも自分に必要なものは向こうのほうからやって来るようなきがしていました。真剣に探したりするとかえって何も見つからないような気がしていたようです。
何もしないで棚からぼた餅風に口をポーンと開けて待っていれはいいのかというとそうでもないのです。それでは向こうから来ても素通りしてしまうのです。これではもったいないのです。自分が好きなことは夢中にならないとダメなようです。ただ好きと言っても本当に好きなのかどうかはあまり考えていませんでした。気まぐれなわがままな選択のことが多かったようです。
ただガツガツというのは苦手で、バーゲンの時などに人だかりの中を我こそはと品物をかき回している人の中には入れませんでした。でも残り物には福があるもので、人の波が引いた時に行くと気に入ったものが安価に手に入ったりしたものです。。
現代社会は安定した人生設計をするよう考える傾向が強いです。その人のため手段としていろいろな保険に入るというのがありますが、ドイツ人は統計的に見て保険のかけすぎが指摘されています。何にでもたくさん保険をかけます。それも目標達成の一つなのかもしれません。私の目からするとどこかに大きな不安があることの裏返しのように見えるのですが、何にでも保険をかけて、押し寄せてくるかもしれない災害から身を守ることで安心を買っているのです。保険は唯一の安心材料なのかもしれません。宵越しの金はモタねぇ、なんて江戸の人のような考えは想像を超えたものに違いありません。自分で自分のこれからの人生を決めておかないと安心できないのです。向こうからやって来るなんて考えるのは、そういう人たちからしたら全くもって無責任な生き方にしか写らないのです。
そこには当然生死感も関わってきています。死ぬことをどのように捉えるかで人生は変わって来るからです。もちろん若い時には死ぬなんてまだまだ先のことと考えていますから、死が人生を左右するなどとは考えにくいのでしょうが、人はいつかは死にます。必ずです。死ぬまでに一旗あげて後世に名を残そうなどと考えている人もいるはずです。そこにはっきりした目標が必要なのでしょうが、どこからその目標を持ってきたのか知りたくなります。
思春期前に子どもの中に突然「自分はこうなりたい」と衝動的にビジョンが心の中に湧いて来ることがあるようです。これなどはどちらかというと、やはり向こうからやって来るようなものを感じます。周囲の大人たちには「将来こうなりたい」と言ったりしているだけですから、その子どもの心の中には気がつかないでしょうが、それは親とか環境から言わされたこととは違うものです。
いま私は、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンという人のことを思い出しています。彼が毎晩寝ときに聞かされギリシャの神話の世界がどうしても単なるお話に過ぎないと直感したことで、偉大な発掘につながったのですが、向こうから来たお告げのようなビジョンに導かれた一少年の話をワクワクして読んだことがあります。もしかすると、今の子どもたちにも潜在的に眠っているものではないかと思っています。それを壊さないような教育が将来に望まれる教育かもしれません。