ライアーとシューベルト その七
2013年3月27日
シューベルトの音楽は生々しい。
一体何がそんなに生々しいのかと言うと、音楽が魂そのもので、しかも霊的だからだろう。
これはどう言うことだろうか。
音楽と言うのはそもそも魂と繋がっていて、心を表現すると言われている。
ところが私がいつも疑問に思っているのは、心は表現できるのだろうかということで、この言い方の中に何か誤魔化している様なものがあるのではないかと、若いころから思い続けてきた。もちろん今も変わらず思い続けている。
心を表現する、これは学者の様なひとが想像したもので、現実にはないものだろう。
心は表現の対象ではなくて・・・、
では何だろう。
もしかすると心理学ほど心に罪な事をしたものはないのかもしれない。
心はズタズタに切り裂かれて解剖されて瀕死の状態にあるのに、でも誰もそのことを理解していない。
説明は言い訳に過ぎないのだから、もうそろそろ他の仕方が現れても言い様な気がする。
芸術だ。
これからは芸術と言う仕方で人間は、心に向かうのだ。
芸術の中の魔術だ。
これからの人間は魔法が必要なのだろう。
魔法にかけられる、しかし意識は失わない、これが新しい魔法だ。
シューベルトの音楽はこの魔法に近い。
自分が音楽に溶けるように感じることもある。
しかし自分を失うことはない。
シューベルトはいつもさわやかな朝の様に私たちを目覚めさせてくれる。
この世界にどこまでライアーが近づけるか、今回の録音ではそこに気持ちを持ってゆきたい。