日常生活という神秘 その六 母性性と宗教性
母性が日常生活、日常生活が母性的なもの、ここから話しが始まると思います。と同時にこれで今回の話しの流れを終わりにしたいと思います。
日常生活は確かにあるのに見えないものです。見えない人には何時までも見えないものです。
一つの例ですが、家庭の主婦というのは社会的には全く認められていないものです。それはそこから来ています。何か社会のために生産的なことをしていると給与がつきます。主婦は何もしていないので無賃労働ということになります。とてもおかしな話です。
社会というものは個々の人間の考えが反映しているものです。ということは、今の人間は主婦というものを認めていないのかもしれません。この問題は各地での講演会の後にお母さんたちと食事をしながらよく話題になります。ご主人も自分の奥さんの主婦業を理解していないこともある様です。「君は何もしていないからいいね」とまで言う旦那さんがいると聞いたこともあります。解決しなければならない問題の核心は案外近いところにありそうです。
見えないものは価値が無いというのはある意味では当たり前のことなのでしょうが、それを推し進めてしまえば見えないものは無いというところに辿り着きます。唯物的な考えです。とても合理的といえるかもしれません。でも何か物足りないものを感じます。
見えないものは本当に無いのかというと、人生の醍醐味は見えないものから成っているという人もいます。私もそう考えます。
日常生活そのものがあたかも何でも無いかの様に過ぎ去ってしまいますから、捉えどころが無く、見えない人に対していくら説明してもその説明は徒労に終わってしまいます。
日常生活の中の母性性、ここのところをもう少し広げたいと願っていますが、なかなか難しいものです。日常生活というのは刻々過ぎ去って行くため、一つ一つが定義できないということでしょう。日常生活は定義できないものです。そこにも問題があるのかもしれません。
そんな日常生活ですが、それを受け入れ、それを生きる力が我々にはあります。これは事実です。それがわたしかが言いたい母性性というものかもしれません。受け入れる、という何でも無い様に見えて、一番深いものがそこにあります。
極悪人と言われている人の母は、母として自分の子どもを受け入れます。母の凄さをここに見ます。病気のわが子を受け入れます。障がいを持っていても受け入れます。これも母の力です。
母性性は宗教性に通じるものがあるのかもしれないと最近考えたことがあります。
映画でレ・ミゼラブルを見た時に、筋金入りの宗教性が人間の中を貫いているということを感じました。素晴らしい人間賛歌でした。
社会が不安になるといろいろな形で宗教が頭を持ち挙げますが、筋金入りの宗教性はそうした時代の移り変わり左右されないで、人間であることの真ん中を貫いています。そして人間がこれを毎日の生活の中に活かせれば・・、そんなことを願います。
日常生活の中にある母性性は、この宗教性によく似ています。日常生活はとかく素通りされてしまいます。しかし母性性はそこにしっかりと焦点が合っているのです。
日常生活の中を母性性が貫いているので、人間は毎日生きて行けるのです。
別の言葉でいえば、人間の中を宗教性が貫いているので、人間は毎日生きて行けるのです。