正しい人 – 悪人または善人、善人または悪人

2013年4月26日

善人、悪人、この二つがうまく定義できないことを理解してはじめて一人前です。絶対の悪人もいなければ、絶対の善人もいないわけで、二つを掛け持って生きているからです。混ざり具合と言うことでしょう。

一つ注目したい発言があります。芝居や映画の世界では「悪役」を演じるのは「いい人」でないと薄っぺらになってしまうと言われています。含蓄のある言葉で、その本意は専門的になってしまいそうですが、意地悪な人に意地悪な役を与えてもつまらないものになるだろうくらいは素人でも想像が付きます。根はいい人が意地悪な役を演じる所に独特の味と厚みが出て、見る人を喜ばすのでしょう。監督と言うのはそうした人材を的確に配置できる人と言うことです。

天才は弟子を育てられない、それどころかお弟子さんに教えることすらできないと言うのもよく似ています。もともと天才の証である才能をもってしまっている本人からすれば、他から見ると天才的才能であっても当たり前ですから、そんなことにわざわざ時間を割かなくても出来るじゃないかとなってしまいます。生徒さんにしてみれば、そこのところが知りたいわけで先生を選んでいるのですが、天才には生徒さんの気持ちが分かりません。

自分がもっているものは見えない、それには気が付かないのです。自分自身のことが分からないと言うのは、そのことと同じです。性格もです。いつも何かに付けて手伝って下さる方にお礼を言うと、その方はこちらか言わなくても来て下さってお手伝い手下さる方です、却って恐縮されてしまいます「そんなわざわざお礼を言われることではありません」。その方にしてみれば当たり前のことだからです。

意地悪な人も意地悪が当たり前ですから自分が他の人に意地悪をしているとは気が付かないものです。そういう人に限っていい人ぶりマス。他の人が何かをしでかしたりすると、大変です。その人の心の中の意地悪根性が吹き出してきますから猛烈な勢いで悪口を言います。悪口を言う人はいつも自分の中にその種を抱えていて、植物の種が外から太陽と水をもらうと発芽するように、外から刺激が来るといっぺんに吹き出します。

他人の悪口を言う人は何かにつけて「正しい」を繰り返します。はたから見るととてもギクシャクしたものです。結局は自分が正しいと思っていることを、「それは間違っている」、「正しいのはこうだ」ということにして自分の意見を強引に押し通します。

なんだかとても堅いものを感じます。あるいは仏教が言う無明に近いものを感じます。

「タダシイ」と言うのは怖いもので、「タダシイ」は主観的なものでしかないのに、「タダシイ」を振り回す人に限ってそれを正当化しようとします。正当化はよく見ると「タダシイ」の親戚です。そしてタダシイの後ろには「正しく無いもの」、もしかすると「悪いもの、善くないもの、もくろんでいるもの、意地悪なもの」が潜んでいることがあります。要注意です。

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