シューベルトのメロディー、それは真水の如し
「音楽はメロディーで始まり、メロディーで終わる」。シューベルトを弾く毎日の中で感じています。
当時、シューベルトの友人の一人が「君はこのメロディーをどうやって見つけたのか」と書き残していますが、私もシューベルトに聞きたい程です。「どうやってあなたのメロディーはうまれたのですか」。彼の癖のないメロディーはただただ驚きで、本当にこんなことが起こるんだと感心の連続です。
シューベルトのメロディーは今さっき湧き出たばかりの水、そんな比喩が似合っています。水のようにすべての人の口に合います。水は命になくてはならないものです。命を支え続け、命が燃え尽きるときには水を欲しがります。シューベルトは心の水です。水のようなメロディーを後世に伝えてくれました。
もうじき六枚目のCDの録音が始まります。いつものように名古屋のパームのスタジオです。焦点はシューベルトのメロディーです。その謎を解いて皆さんにお聞かせしたいと願っています。
水のことを言いましたが、水と言うのは特別なものです。その中には古来から不思議な力が宿っていると思われていました。
水は人間生活の至る所で尊重されています。飲み水としてだけでなく、人間界と精神界の仲介者としてもです。
シューベルトの音楽は心に直接届きます。シューベルトの音楽から心の糧を得ます。それがどの国に行ってもシューベルトの歌が好んで聞かれる理由だと思います。
奇麗なメロディーにはしばしば出会います。ところが奇麗なメロディーとか、覚えやすいメロディーに限って、聞いているうちに耳に付いてくるものです。すぐに飽きが来てしまいます。取って付けたような、という印象に変わることもあります。案外甘ったるいものだったりもします。
シューベルトの癖のないメロディーは、歌も器楽曲もどちらもです、しばしば「自然な」と言われますが自然と言う言い方は、曖昧な言い方の様な気がして、ここでは真水の如しとしてみました。いつも聞けるし、何時までも聞いていたいものだし、どこかで知っている、そんな気を起こさせます。
癖のないメロディーのことをもう少しいいます。後生に名を残すような音楽家といえども癖があり、メロディーの中にはっきりと聞こえます。私はそれらを癖としてとらえていますが、一般にはそれを個性と見なすことがあります。が、癖はあくまでも癖としておいた方がいいと思っています。しかしシューベルトのメロディーはシューベルトの癖から生まれたものではなく、詩のもっている詩情がメロディーになっているので、シューベルト個人の癖とは違って、詩によってメロディーが全く違ってきます。シューベルトらしさを見つけるのが難しいと言うことにもなります。
ここのところは未だに十分理解されていません。特に西洋音楽的な観点からすると、シューベルトの音楽には個性どころか、哲学的な背景が無いとか、あるいは乏しいという評価になります。彼はシューマンやブラームスに見られる知的なロマン派的な背景が弱いと見なされていてそれが音楽学者たちが彼をロマン派の音楽家として認めない理由になっています。
シューベルトは別の観点から、いいまでない斬新的な観点から見られるべきだと考えています。私論を言うと、彼はヨーロッパ音楽の中に初めて現れた東洋的音楽家なのです。シューベルトと詩が対峙します。彼は詩を読んで、しかも何度も読んで、詩の中にあるメロディーをくみ取ります。まるで芭蕉の「松のことは松に習え」の様です。それを狂ったかの様に猛烈な勢いで五線譜にします。シューベルトがゲーテの魔王を作曲しているときの様子を伝えたものを読むと、彼はまるでとりつかれたように歩きながら大きな声を出して詩を朗読したようです。密度の高い詩との出会い方が彷彿とします。詩の意味ではなく詩の中のメロディーを聞くことに懸命だったのです。後世の批評家が好んで定規にする詩の文学的意味、詩の精神性から見るとシューベルトは実につまらない詩を歌にしていると言うことになります。彼が詩から欲していたのはメロディーでした。単に奇麗なメロディーでもなく、音楽的なメロディーとも違って、音楽で詩を解釈すると言う者でもなく、言葉の響き、詩情に含まれているメロディーでした。文学としての詩ではなかったのです。
余談になりますが、ゲーテが、尊敬して止まなかったモーツァルトの最後のメルヘェン的オペラ「魔笛」を聞いて、自分でもすぐに第二の魔笛の台本を作りますが、それはあまりに文学的、哲学的過ぎてオペラの台本としては不向きで、未だ音楽として聞くことはありません。文学的な詩は文学として評価されるべきもので、それがそのまま歌のテキストに相応しいかと言うとそんなことはないのです。その点をもっと留意すべきです。
シューベルトのメロディーは知的ではない、いやというほど耳にし、目にする発言ですが私はここがすごいと思っています。
脳生理学者の中には音楽を左脳の仕事と見る人もいます。そもそも知的な音楽が「シューベルトにあっては知的に感じられない」ということになるとそこで何かが起こったと見るべきではないのでしょうか。勿論、当然、何かが起こったのです。
音楽が知的な領域を超えて、心の領域に入ったと言うことです。今はまだ奇跡としか言いようがない大事件でした。
知的な音楽が知的に聞こえる様ではまだ普通のことでしかないのです。