例外と本当とどちらが本当
「例外として認めましょう。本当はそれではいけないのですが、今回だけはいいことにします」
お役所で太っ腹のお役人さんと運良く巡りあった時に耳にするやりとりです。
例外と本当とが交錯していて、日常生活の中に隠れている真実をかいま見れるのではないかと睨んでいます。
例外の方が人間味があるとも感じていますから、焦点を当てると色々なものが見えて来そうです。
先のやりとりの様に例外を本当は善くないものとか悪者的扱いすることが多く気になって仕方がないのです。
例外は規則からはずれていることで、規則に従っているときは模範的です。気の弱い人は規則からはずれるのを怖がります。規則通りにしていれば人から後ろ指を指されることがないので、いつも模範的であろうとします。例外を平気でやっている人は模範的であることに拘らずに、大らかに生きているものです。度が過ぎては困りものですが・・。
社会にはいろいろ規則あります。法律もその一つです。そして社会人はその規則に従うことが前提となります。
規則に全員が従っていれば社会生活はスムースに運ぶ、こう考えることが出来ます。でもそこには画一化という危険な状況が待ちかまえています。みんなが同じでなければいけないのです。軍隊社会はこうした社会です。そんな社会だと例外は厳しく罰せられます。政治的に見ればたいていの場合、そんな人間に生きていて欲しくないから、死罪です。
規則が何を基準にしているか、一人の独裁者の考えである場合だってあるわけですからこれも大事なところです。そうなった場合の社会は悲劇です。そういう状況が前の世界大戦の時には見られました。今も無いわけではありません。
例外を認めるというのは、こうして見ると例外的なことのようです。なかなか太っ腹の持ち主だと言うことになります。社会が太っ腹と言うのもおかしいですから社会的余裕とします。余裕がある所では例外が通ります。逆に例外がないと言うのは社会にしても個人にしても余裕がない証拠です。先の画一化と言うのは、社会的に見て余裕がない状態です。個人のレベルで言うと、模範的な人で遊び心がない人のことです。窒息しそうです。
遊びと言うのは工業的に見ると、ピストンとシリンダーの間の隙間になります。その隙間がないとき、ピストンとシリンダーの間に摩擦熱がうまれ故障の原因です。隙間が多すぎても故障の原因になります。適度の遊び、良い加減(イイカゲン)の隙間が理想的です。
例外を認めるのは遊び心なのですが、「例外は遊びとか無駄」、そして「認めるのは心、心の仕事」としてみてはどうでしょう。
心の教育と言うことが随分いわれますが、心がどう育つかは未だに謎の様なところがあります。心理学は心の様子を説明します。しかし心がなんなのかは分からない様です。天文学のニュートンの言葉を思い出します。「ある星が一年先にどこに来るかは正確に計算できるが、あの星がなぜあそこにあるのかは神様にしか分からない」。
心は自分を認め、そして相手を認めると言う作業の中で徐々に作られてゆくもの、私そのように考えています。
シュタイナーは「意志は誕生の度に毎回新たに作られるもの」と言っていて、ここで問題にしている心にも当てはまるような気がするのです。人間総体的に見れば前世からの延長にあるものもあるのでしょうが、意志、心は今回の人生を始めるに当たって毎回ゼロから作られてゆくものなのです。