音には意味があるのです
オスカー・ワイルドは小説、戯曲、エッセイ、そして童話を残しています。
作品の数はさして多くもなく、千ページの本一冊に収まってしまう程の量です。
彼の評価は賞賛と誹謗の両極端ですから、そういう人には自分で当たって、自分の感性で確かめるしかない訳です。
私はこう言うタイプの人が好きですから、昔から彼のものには折りにふれ触れていました。
しかし苦手は彼の童話でした。これだけはどうしても他の物のように喜んで読めなかったのです。
それで思い切って英語で「幸福な王子」を読んでみました。
そうしたら、なぜ私がずっとワイルドの童話を苦手にしていたのかが解ったのです。
私が読んでいた訳がひどかったのです。
誤訳が非常に目立ちます。英語の初心者の私にすら誤訳と解る程の惨憺たるものです。
できればこの翻訳の出版をさしとめたいくらいです。
ちなみに、その誤訳の多い本は新潮文庫に収められているものです。
その訳の中で、王子の像は金箔がかかったことになっていますが、ワイルドはそういう王子様の像を見ていませんでした。
実は黄色に染まった葉っぱでおおわれて金色になっているだけだったのです。
そして文章が一回読んで解らないような文章ですから、読んでいて頭痛がしてくるのです。
翻訳は難しいものです。自分で何度か翻訳を試みたことがありますからよく解っています。
表現の違いを乗り越えようと凝り過ぎてしまう私はこの仕事ができないとすぐに匙を投げました。
こんなことをしていたら体を壊してしまうと直感したのです。
意味はなんとか伝えられるのですが、作者の意志、コトバの響が伝える直感が訳せないことが解ったからです。
意味は伝えられというのも実は眉唾です。訳者の解釈になってしまうからです。
まあ翻訳文化は、そういう危険性を持っていますが、とはいっても私自身沢山の翻訳で思考の世界、心の世界を広げてもらった人間です。
ですから翻訳には感謝していますし、その必要性は大いに認めています。
そしていつも感心するのは、優れた作品には、誤訳があってもそれを超えた所で読者に伝わるものがあるということです。
そんなことを考えながらライアーを弾いていたら、楽譜というものがやはり演奏という翻訳を通して行われていることに気が付きました。
ライアーを弾いていると、ライアーだけではなく演奏全てに当てはまることですが、「この音をどう弾いたらいいのか」、ということによく出会います。
フォルテかピアノか、スタッカート的にかレガート的にかという初歩的なところから始まって、悩み始めると疑問がどんどん湧いてきます。
今日はこう弾くのが自分で納得できる、というのもあります。一人の人間の中で毎日感じ方、解釈が違ってくるのです。
一回の演奏会を聞いてそれに評論を書いている人がいますが、一回性というその日の演奏に対しては何か言えるものがあるのでしょう。
しかしそういった批評は、実際にはほとんど意味のないことでもあるような気がします。
一つの音の前で立ち止まって考えていると、
「ああでもない、こうでもない、こうするといいかもしれない、やっぱりああ弾くべきかな」
といろいろな思いが巡ります。
その時降りてきた直感が一番です。
考えて整理したものに頼っていると、演奏がパターン化してしまいます。
とはいっても直感が降りて来るまでには大変な努力が必要だということも言っておきます。
悩みながら磨くしかないのでしょう。
そしてそうして悩みながら、音符一つと深く付き合いながら、音符がただの記号でないことを理解するようになるのです。
音符の向こうから音楽が聞こえてきたらしめたものです。
音一つに本当に深い意味があると感じることがあるはずです。
そうしたら一音一音が粗末にできなくなってきます。
そしてパターン化された音楽から、活き活きした直感がイメージとして生きている音楽になって行くのです。
一つの音には、意味もさることながら、作曲者の意志と感性と直感が生きているのです。
それを音にする、それが演奏です。