百万人のためのライアー

2013年5月19日

こんなことを言うのはおかしいのでしょうね。ライアーはマイナーな楽器ですから、今のところせいぜい百人程度の規模で考えるのが普通です。しかしライアーの良さは潜在的には百万人の人が認めている様な気がするのです。そこを強調しなければならないのではないのでしょうか。そうすることで初めて輪が広がります。

ライアーが広がったら社会が変わる、そんなことも考えます。ライアーの様な響きに心が同調するとき、心は潤います。心がきりきりしないで余裕をもつからです。ライアーの音は心にゆとりと潤いをもたらしてくれます。心を育てると言うことが教育の世界では叫ばれていながら、あまり成果が上がっていません。むしろ本当の所はほとんど手つかずの状態と言ってもいいのではないか、そんな気がします。心をあまりに説明しすぎていることも大きな原因だと思いますが、実際に心を育てるものがなんなのかが全く分かっていないところにも原因があります。

ライアーは心に届きます。心を動かします。涙を流す人が多いのはライアーの特徴です。それほど聞き手の心は動かされているのです。音楽とかの難しい講釈なしに、ライアーの音が直接心に届きます。ここに何か期待できるものがある筈です。

多くの人があまりにもライアーの存在を知らなさ過ぎるのは残念で仕方ありません。これは両方にとって致命的です。ライアーにとってもですが、ライアーを必要としているのに知らない人たちにとってもです。この二つの間がかみ合わないのは、きっとその間をつなぐ歯車が一つ足りないからです。もしかしたら本当に小さい歯車なのかも知れません。その歯車のことにみんながまだ気づいていないのです。

私はその歯車の役は、「心のことを社会が真剣に考える様になること」だと思っています。今は誰もが心のことは一応言いますが、現実に大切なのは心ではなくて能力です、学力です。知力です。いい学校に行くことと要約してもいいかも知れません。しかし心を置き去りにして知力ばかりが伸びたとしても、人間のバランスを取る心が偏ってしまえば、バランスはどこで取るのでしょうか。そんなものは必要ないと考える人が案外多いのです。言葉に出して言う人はほとんどいませんが、内心は多くの人がそう考えています。

心のアンバランスはすでにはじまっています。心のアンバランスが今以上の規模で問題化してしまうと、社会が崩れるでしょう。社会と言うのはただ制度として存在しているのではなく、そこには生きた人間が行き来している所だからです。人間同士がお互いに感じ合わなければ、ロボット社会になってしまいます。ギクシャクしたものになってしまい、そこで生きている人たちが心の病に罹ってしまいます。そうなると心は破裂寸前の状態で生きることになり、人間関係はほとんど成立しないものになってしまいます。

 

やっぱり百万人の人にライアーを聞いてもらえる、そんな社会を作らなければならないのでしょう。一家に一台ライアー、なんて時代が来れば社会は安泰です。

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