日本の空の下で マネージメントと宗教
昨日は本屋さんに行って、ドラッカーの人気のほどに驚かされた。
一メートル幅の本棚に、八段ぎっしり、ドラッカーの解説本が、ドラッカーの人となり、マネージメントの魅力を熱く語っている。
人生これマネージメント、と言わんばかりで、マネージメントという観点から人生論が語られ、人生からマネージメントをとらえる。
そういえば人生をマネージメントするという処世術は、あまり語られることがなかった。
そうすることはお金に振り回された人生になってしまうという懸念があったからだろうか。
日本は宗教で人生を語ることに対してアレルギーがあるから、宗教はなるたけ避けて通るという風習がある。
私は宗教的精神のことを言っているので、一つの宗教がほかの宗教を否定するようなものでは困る。
確かにそういう低次元の宗教が多すぎる。
が、宗教的バックボーンはこれから大いに考えて行かなければならないもののような気がしている。
今の日本の社会的風潮には、本来宗教が位置しているところに、ドラッカーをはじめとしたマネージメントがあるような気がしている。
マネージメントの師匠がこう言っていた、なんて何度聴かされたことか。
私はそのたびに背筋がぞっとする。
宗教的立場からマネージメントをとらえるのは面白いが、マネージメントが宗教にすり替えられるのはいただけない。
それだけでなく、そうしたマネージメントのお師匠さんたちが、信仰心はもちろん、霊力もなく教祖様として権威をふるっていては本末転倒のような気がしている。
日本はこれからどういう考え方を身につけてゆくのだろうか。
日本が変わるためにはそこがネックになっている。
情報がたくさんあることは無駄ではないが、本質的なことではない。
人間の本質はチャラチャラした飾りではない。
外には何も見えないかもしれないが、本質的なものにはいつも痛みが伴っている。