積み木万歳 柔らかな時間

2013年6月1日

古い積み木を買いました。そこはかとない味が積み木一つ一つにあります。この積み木で遊んだのが誰なのかわかりませんがその子がこの積み木を大切にしていたことと、好きだったことが感触から伝わって来ます。

子どもの遊びがいろいろな角度から問われている様です。教育雑誌を読んでいると悲観的なものが多いのですが、子どもの遊びは時代によって変わっているので、おおらかに見たらいいのにと思います。

唐突ですが、交通の歴史は200年遡るのも2000年遡るのもそんなに違いは無く、蒸気機関車が出てから世界は一変します。1830年代のことです。それ以前は早い乗り物は馬車でした。そして馬車は何頭馬をつなげても早くはならないのです。

社会の変化は子どもの遊びも変えたはずで、今のプレイステーションとかコンピューターのゲームに至るまでめまぐるしく変化したはずです。これからも変わって行くはずです。

 

大小も様々、形も様々な積み木を手にしながら、お城を作ったり、ダムを作ったりしていて、何処にも「こう作りなさい」という手引きが無いので、好きに形を変えら、静かな時間でした。自分の思い通りの物を作りながら、ああでもない、こうしたらいいと自分と対話していました。考えながら作っているというよりも、積み木を重ねながらボーっと夢を見ている様な感じでした。作り方が決まっていて、しかも出来あがりも絵や写真で示されているのは、その通りに作らなければならないので、手順や、形、部品などを神経質にそろえながら組み立てて行きますが、積み木の世界にはそんな制約が無いので、のんびりと勝って気ままに、いつ終わるとも知れないお城に取り組んでいました。

 

今その時のことを思いだしながら書いているのですが、その時の時間がとても滑らかだったのが懐かしく、普段の生活の中ではどうして味わえないのかが不思議です。ビロードの様な滑らかさです。

何処からそんな時間の流れが生まれたのか、振り返ってみるのですが、私の中には漠然と、「お城を作ろう」という程度の目標があるだけでした。どんなお城かも考えていませんでした。どのくらいの大きさのお城になるかも解りませんでした。ただ手にした積み木を積み重ねていて、時々「こうじゃないなぁ」と自分に言い聞かせては作り変えていたのですが、なんとなくお城らしいものになりました。

作りながら、でき上ったところに触れるとすぐに壊れてしまい、何度か同じことを繰り返したりしたのですが、腹立たしくなることも無く、実に穏やかな自分が作業を続けているのです。壊れるのも一興と言うのは大人の自分が言うことで、子どもの頃はイライラしていたのかもしれません。

 

積み木で遊んで、ちょっと珍しい時間を発見しました。

柔らかな時間という言い方は理解してもらえないかもしれませんが、それは柔らかな時間だった、と今思います。

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