アルフレッド・デラー 歌と時間 その三
とうとうアルフレッド・デラーのことを書く日が来ました。
しかし、デラーの声を聞いたことが無い人が随分いると思うのです。
彼の声を聞いたことの無い方は、これを読んだ後にすぐにでも何らかの方法で彼の歌声を聞いてください。youtubeでも聞けます。
個人的なことですが、この人の声、歌、音楽づくりを知って私は音楽に対する考え方を変えたと言っても過言ではないのです。デラーとの出会いは、マラソンの折り返し点の様なものだったのかもしれません。
さてアルフレッド・デラーの何がそんなに影響力を持ったのかということです。
脱力です。
力を抜いても歌が歌えるという決定的な事を彼は教えてくれたのです。
それだけではなく、力を抜いたほうが歌が美しい、美しいだけでく、真実だということを教えてくれました。
力を抜くという妙技に感動したのです。
デラーもスレーザークも声がとてもきめ細かいのが特徴です。この点もよく注意して聞いてください。美声とかいい声をしているとか言うレベルのことではないのです。声がこんな状態になる、そんな感動があります。
声は息の中を生きています。デラーの声を聞いていると、声を聞いているのか、息遣いを聞いているのかが解らないことがあります。この様に歌える人は最近はいません。この様に指導できる人がいないと言う方が本当かもしれません。
デラーはいつプレスを取っているのかわからないのです。もちろん息は何処かで吸っているはずです。そうで無ければ歌えません。しかし聞こえないのです。ここら辺りも歌をされている方にって貴重な材料ではないかと思います。是非参考にしてください。
ということでデラーに習わなければならないことが山ほどあるのです。
デラーは、スレーザークも柳さんも同じですが、言葉を歌います。音符を歌う人は沢山いますが、言葉を歌える人は希少価値です。
言葉をただ正確に発音するという程度のことではなく、言葉になった心を歌うのです。
言葉の響きの中に歌い手の心が聞かれます。
デラーはゆっくり歌います。音を伸ばしているのではなく、言葉を深めているのです。
しかしデラーがいつもゆっくりかというそんなことは無いのですが、一つ一つの音が、しっかりと言葉と結びついていて、決して急ぐことは無いのはどんな場合に共通しています。だから早いのに早いと感じ無いのです。
唐突な話しを織り込みます。
外国語を勉強する時に錯覚に陥っしまうのは、発音よりも解釈、つまりリーダーの時間でやった意味の解釈が大切に見えることです。
でも外国で生活をするとなると無言で人と話しはできませんから、発音が大事になって来ます。どんなに意味が素晴らしくても、発音がいい加減だと誰も聞いてくれません。
その発音ですが、動きとして学ばないと、とても堅い、聞きにくいものになってしまいます。
子どもが綺麗に発音を学ぶのは、子どもは動きとして発音を真似して、それで自分のものにして行くからです。
大人になると耳で聞いたというよりも、頭で考えて、知的な発音をします。それはとても聞きにくいものです。
動きの発音という観点は、デラーの歌もスレーザーク、柳兼子さんの歌のときも同じです。
これを今の時代勘違いをして勿体をつけてうたっていると言ったりします。あるいは、ポルタメントだとか言って単なる技術の問題にすり替えています。
言葉を歌うことの難しさに全然気がついていないのです。
言葉の美しい人の話しは歌のときとまったく同じで、聞いていて本当に心に響きます。美しく響く言葉には心を浄化する力があります。発音が綺麗というのは言葉の勉強の中で一番大切なことだと私は思います。美しい発音をしようとするのは相手を思うからで、そこにはコミュニケーションの一番の要が生きています。
何故こんな話を突然持って来たのかというと、声を動きから作った人たちは、外国語をとても綺麗に使えるようになります。私の師匠のシェーファー先生は英語を話すと、「もう何年こちらに住んでいらっしゃいますか」と聞かれたそうです。フランス語のときも同じでした。柳兼子さんのドイツ語の発音は日本人とは思えない程のものです。本当に立派です。声が動きだからです。動きだからそもそも動きである言葉になじむのです。それが心に響くのです。
デラーの声もピュアーに動きです。
彼に日本の歌を歌ってもらいたかった、何度思ったことか。
きっと綺麗な日本語だっただろうと想像しています。
きっと日本情緒を彼の言葉の魔法で新しい世界に持って行ってくれたかもしれない、そんなことも考えます。