マンネリと健康
庭に大きな白樺の木がある。
いつも見ているその白樺が今日は別のもののように見えた。
すると、わたしのバックからもいつもとは違う元気を感じる。
毎日同じ様に生きていて、同じではない。
どうしてだろう。
一日は、毎日作られているということだろう。
毎日創造行為をしているのだ
そう思えば何も不思議ではない。
毎日が同じ繰り返しだったら、それは機械だ 。
大量生産される毎日ではなく、毎日違う一日がある。
まるで手作りのものの様にだ。
職人さんの作るものは上手になればなるほどいつも同じ様になって行く。
人間の成長、熟練は機械のようになることなのだろうか。
焼き物を焼いている人のところに連れて行っていただいた。
息子と同じ名前のタクミさん。
タクミさんは仕事場で轆轤を回しながら手を休めることなくわたしとずっと話しをしている。
邪魔をしているのではと内心反省しながら。
タクミさんは小さな子どもの時から、土と生きている。
18世紀から延々と受け継がれている焼き物の村の子どもだった。
轆轤を回しながら器を作っている時、彼はわたしと、時には一生懸命話しをしているが、手は休むことなく動いている。
土と話しをしている。
わたしにはそう見えた。
間違っても陶芸の仕事をしているという風には見えなかった。
遊んでいるように見えた。
無造作に轆轤の上に粘土をたたきつけると、また無造作に土を器にしてゆく。
それでいて、なのか、それとも私と話しをして気がそぞろだからなのだろうか、毎回出来あがって来るのは寸分たがわないものだった。
彼の手は、考えることなく、器を作る。
タクミさんはあっぱれなまでに無造作だった。
しかし手はかんがえている。
それ以上だ。
違うレベルで考えている。
土に、器に、轆轤に仕えている、そんな風ですらあった。
焼き物の世界と一体となっている。
あの無造作の中に完璧さがある。
それは機械にはできない。
タクミさんを機械のようだとは、一緒に居る間、一度も思わなかった。
機械はいつも一生様懸命だ。
毎日が同じ様にしか見えなければ、それは機械になってしまったということだ。
人間が機械になれば、待っているのは病気だ。
次から次にやって来る一日一日は必ず違う。
それが同じ様に見えるというのは、見る方の人間に原因がある。
目が死んでしまった。
心が死んでしまった。
そこから病気が始まる。
病気は、毎日と対話できなくなった時が始まりだ。
毎日の違いを感じなくなってしまったということ。
だから機械と同じになったということ。
毎日が同じになってしまう。
悲劇だ。
心はいつも活き活きと対話している。
周囲と。
人と、自然と、宇宙とそして自分と。
わたしは人間は自然をいつかは理解できると信じている。
自然も、宇宙も。
今の人たち説明に翻弄しているが、説明できても、それは理解ではない。
説明がどんなに立派でも、それは理解とは違う。
自然に、宇宙に向かって話しかけることだ。
タクミさんの手が土と話をするように。
閉じこもって机の上で整理するのではなく、外に出て行って、頭をからっぽにして無造作に振る舞えばいい。
そして心で話しをする。
話しかけることだ。
それは自分から一歩出て行くこと。
それしかない。
そこからタクミさんの手になる器の様なものができて来る。
話しをすれば、同じ自然が、毎日違うものに見えるようになる。
健康って素晴らしいことだ。