迎え入れてもらえる喜び、すなわち生きる力

2011年9月30日

中国行きがだんだん見えて来て、中国側から、日本語ではなくやはり英語でレクチャーしてほしいという希望が届きました。

日本語でもいいと言われていたのですが・・。

飛行場のことなどを調べていたら、迎えが来るということで胸を撫で降ろしています。

知らない土地に着いて迎えが待っているというのは心強いものです。

一喜一憂です。

 

子どもも同じですね。

子どもは迎えが必要です。子どもの場合は、お迎えでしょうか。

地上に辿り着いた子どもは、誕生のことです、しっかりと迎えられることで、そこに安心して居られます。

北原白秋のふるさと、柳川で講演をした時のことです。

そこの方が、この地方には生まれたばかりの子どもさんを訪ねて、そのお子さんを褒めるだけ褒めるという役の人がいるんです、と伺ったことがあります。

その時子どもの顔が変わると仰る方もいました。

生まれたばかりの子どもも聞いているでしょうが、御母さん御父さんの自信にもつながる様な気がします。

家庭に迎え入れられることも大きな力です。

そして幼稚園、保育園に行くようになりますが、そこでも自分が迎えられているという安心感は絶対です。

学校に行くようになっても同じです。

社会に出てもやはり同じではないかと思います。

実際、私がまだ行ったことのない中国に行くときのことを考えても同じです。

飛行場でタクシー乗り場を探して、そこでホテルの住所を差し出して、いざホテルへ。

しかしホテルに付くまでの不確かな気分は独特です。

そこに迎えが待っている、今はとても幸せな気分で、中国に行くぞと覚悟が付きました。

 

しかし英語が残っています。

日本語で話しができるかもしれないという可能性が消えてしまった今、英語しかないという現実です。

私にとっての強い味方の外国語はドイツ語ですが、それも駄目です。

ところがです。この場に及んで新しい感触が生まれたのです。

もう英語しかないというところから何かが始まったのです。

英語に身を預けました。身も、心も、精神もです。

すると英語の方から今までとは違ったものが、呼んでくれているとしか言いようのない温かいものです、こちらに向かってやって来ます。

今はその中で、英語を勉強するというより英語から力をいただいているという感じです。

そんなことが起こるとは、英語を再勉強し始めた一年前には想像していませんでいた。

 

最近幼児教育の研修をされる方とお話しをしました。

感想だけ言うと、小さな子どもの世界ににどんどんメスが入ってきて幼児教育をしっかりとした教育にしようとされているようでした。

それが幼児期に人間が必要なものなのかどうか、家に帰って考えてしまいました。

お母さんたちも教育家になるそうです。

今子どもがどの成長期にいるのかしっかりと見極めることが子どもの成長の一番の力になりますと断言されていました。

家庭の役割よりも教育的観点が優先してしまうのかとすこし寂しい思いがしました。

子どもを迎え入れるというのは、そういう考え方の中でどこに位置しているのでしょう。

そんなことをその方に言ったら、随分曖昧な言い方ですね、とたしなめられるのでしょうか。

 

小さな子どもがお母さんの胸に度び込んで行く時の顔は満願です。

そしてすぐに我儘が始まり、親子はぐぢゃぐぢゃになります。

私はこんな時にほとばしる喜びと生命力を感じます。

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