Ich denke die Rede への提言
この文章はオイリュトミーをされる方にとって興味深いもので、他の人には話しについて行けないと言う印象を持たれてしまうかもしれませんが、言語的に面白い話しが登場しますから、お時間のある方は是非付き合ってください。
これから述べる内容のことは長いこと気になっていたもので、二十年位は経っています、いつか機会があればと思っていたのですが、なんとなく機会を見つけられず今日まで経ってしまいました。内容が入り組んでいるためでした。
さて始めましょう。
Ich はドイツ語で「私」と言うことです。しかしここでは個人の私を超えて、「人間」と言う意味になると思います。ドイツ語が属しているヨーロッパ言語は、「私・あなた」、「自分・他人」と言うことをはっきり区別していて、Ichは、普通は自分を現わす言葉ですが、ここでは狭い意味での私ではなく、私と言う人間、更に人間そのもの、人間であること、と言う広がりを持っています。
Du (英語のyou)も同じ広がりの中にあります。ちなみにdu( you)はお前、あなたと言う意味で使われるのが普通ですが、特殊な例としては、神様に話しかけるときはdu(you)が使われます。また独り言で自分に向かって言う時にもdu(you)になります。
自分、お前と言うのは実はとても広がりのある、含蓄のある言葉だと言うことです。人間であり、人類であり、神様でありというわけです。ここでIchはこの広がりの中で使われています。
さて次は Ich denke の denke です。
原型はdenkenです。英語のthinkのドイツ語です。考える、思うと言う意味です。余談ですがこの言葉は感謝すると言う意味のdanken とthankと根っこは同じ言葉です。
私たちが「考える」と言う時のことを考えてみると、思いだしているか、これから何かしようとしていることを考えているものです。先ほどのIchとつなげると「人間は考える」となります。ドイツ語の現在形は英語の現在進行形ですから、「人間は考えている」のです。
ここまではすんなり説明が付くのですが、この先は少し複雑です。
Die Redeは話すこと、語ること、演説と言う意味です。
ここでは考えることの目的語になっています。つまり話すこと、語ること、演説と言ったことを考えていると言う風にとれそうなのですが、そうは問屋がおろさないのです。
Denkenと言う動詞は「なにを」考えているのかを言う時には常にan と言う前置詞と対になって「なに」が明示されますから、ここで見られるIch denke die Rede と言う言い方は、「わたしは話すことを考えている」と言う訳にはならないのです。
日本語で「わたしは学校に行く」と言うところを「わたしは学校で行く」とか「わたしは学校と行く」と言っても何のことを言っているのか解らない様なものです。
Ich denke die Redeは意味をなさないと言ってはいけないのでしょうが、普通に聞いても何のことを言っているのかちんぷんかんぷんなのです!!!
ドイツ語を研究している人にとってはとても興味深いところですが、これはひとまずは訳せないと言うことです!!!
ではシュタイナーの怪文章は何が言いたいのでしょうか。
考えると言う言葉は、古い言い方を見るとIch denke deinerと言うのがあって、目的格に二格を取ります。意味はあなたのことを思いだしているとなり、「考える」の過去のことを述べています。
12世紀頃まではdenkenと言う言葉はあまりみられません。もっぱらgedenkenを用いていました。
Ich gedenke deiner となります。あなたのことを思っていると言うことになるのですが、目的格が二格です。
二格と言う目的格は要注意です。
現代ドイツ語では姿を消してしまいましたから、これも一般的には理解しにくいものですが、目の前に居るあなたと言う存在のことではなく、頭の中に登場したあなたと言う感じです。このgedenkenと言う言葉は、今日では死語に近い言葉で、死んだ人のことを思う時にだけ使います。御通夜のときにはぴったりの言葉です。
この簡単な文章の中で一番私たちを苦しませるのはdenken と言う動詞が四格の目的語を取っていると言うことです。本来は四格を取ることが無いのに、シュタイナーが目的語を四格で受けたと言うことです。
二格だ四格だと言うのは文法の問題だけでは片付かないものです。目的格の使い方にははっきりと生きる人間の意識が表現されています。
二格は現代人の意識ではないと言うことです。と言うより、現代人は二格の意識を失ってしまったと言うべきです。
昔は食べると言う動詞の目的語は二格であらわされました。飲むと言う動詞も同じです。今日のドイツ語では四格です。何かが違うのです。
食べているものは肉とか野菜で同じでも、食べ方、食べる意識が違うのです。
日本語では食事のときに「いただきます」と言いますが、「ありがたく頂きます」と言う意味で、感謝の言葉を述べて、食べるという感謝の行為をすると言うことです。「お元気ですか?」と聞かれて「お陰さまで」と言う時もよく似ています。別に質問された方のお陰で元気だと言っているのではなく、自分を守っている存在に感謝しているのです。
食べるもの、飲むものが、ただの「飲み食い」の対象ではなく、「神様からいただいているもの」と言う意識の中で感謝の対象だったのです。
考えると言うのは、一つは思いだすと言うことです。昔の人は、思いだせることを感謝していたと見ていいのかもしれません。思いだす、忘れると言う動詞は、昔の言い方で言うと二格の目的語を取ります。勿忘草(わすれなぐさ)はVergißmeinnichtです。真ん中のmeinは二格です。私のことを忘れないでと言っているのですが、「私のことを」のところが二格になると言うのは、あなたがわたしのことを忘れるかどうかは「神様にお任せした運命だ」と言わんばかりです。以前にdes Todes sterben、運命にしたがって死ぬ、と言うことをブロクで取り上げています。(2013年4月30日)
Denkenを調べてみました。ヘルマン・パウルと言う方の書かれた辞書にヒントがありました。
Denkenは、思考の内容そのものを言う時、真実、ウソ、悪と言ったものなどの時には四格を使って表現できると言うのです。シュタイナーは間違ったドイツ語を使っていたのではないのです!!!
Ich dnke die Wahrheit.(私は真実の本当の姿を考えている)と言う様な時です。
思考の内容と言うのは、「いつか実現するもの」と言うことで、今はまだ存在していないもので未来を暗示していると言う風にとることができます。思考、考えると言うのは一方で過去を向き、もう一方では未来を向いていると言うことです。そうするとここでは、「人間はいつか語る様になる」と言う意味が浮かんできます。未来の人間のことを言っているのです。
Ich denke die Redeは六つのオイリュトミーのマントラの一番初めに言われるものです。
二番目は Ich rede です。人間は語る存在である。今人間は語っている。
そして三番目が Ich habe geredet 人間はかつて語ったことがある。
Ichを人間ではなく、ここでは思い切って人類とします。そうすると
人類はいつか語る様になる。
人類は今語る存在である。
人類はかつて語ったことのある存在である。
と言う流れが生まれます。言語と人類のかかわりを大きな歴史的な流れの中でとらえています。
このオイリュトミーのためのマントラは人類の言語生活の発展の様子を鳥瞰図的に、高いところから捉えて述べているものなのです。
そして残りの三つのマントラが、今述べた内容との比較ではっきりと浮かび上がってくると思います。
人類はいつか言語を使う存在ではなくなるのです。その代わりにオイリュトミーがあると、このマントラは私たちに伝えているのです。