独り言と歌
ある日突然独り言を言い始めたらどうなさいますか。
としを取ると独り言が多くなってきます。独り言は危険なものだと思っていますから、しない様に気をつけていますが、出てきたら仕方がないです、年ということで諦めます。
でもどうして年を取ると独り言をぶつぶつ言う様になるのでしょうか。
その答えが今日出て来るかどうかは解りませんが独り言のことについて書いてみます。
独り言は気持ちを何処にも持って行き様がない時にします。
自分の中の思い、気持ちは他の人と共有するから生きものになるのです。それで心の健康を保っているのです。
一人で思いつめては良くないと同じことが独り言にはあって、自分の中にこもってしまうから独り言は危険なのです。
自分に向かって喋る。ある人が自分以外に付き合う人がいなくなってしまったということかもしれません。それはまるで蛇が自分で自分の尻尾を咬んで食べてしまう様です。
自転車に乗っている人が大きな声で独り言を言っていたら側に寄らない方がよいでしよう。
です、自転車に乗っている人が歌を歌っていたら側によって行っても大丈夫です。
この違いはどこから来るのでしょう。
喋ることは話すで放すに通じていて、心の解放になると一昨日のブログに書きましたが、今日は反対のことを言っているのかと矛盾を指摘されそうですが、これは矛盾ではないと思います。放すと言うのは外に向かってと言うことです。ですから話すのは他人と話す時にだけ心の解放になるのです。独り言は違うものです。
長い間私のブログにお付き合いくださっていらっしゃる方は、私が自分とか自我とかの問題を扱う時に、自分と言うのはそんなに自分ではないのだ、とか自分は霊的に見れば他人だという言い方を繰り返ししているのを読んでいらっしゃると思うのですが、この独り言のもつ危険性はまさにそこと関係があるとおもいます。
喋る、話すというのは人間世界でのコミュニケーションにとって大事なものです。ですから、相手が他の人間でなければならないのに、歌を歌うのはレベルが違うところにあるので、人間世界のこととしてだけでは語り尽くせないのです。
自分は畢竟他人だ、としてもこれは人間生活の中での意識ではなく、霊的な世界の住人としての人間のことで、霊的に見ればと言う条件が付きます。
歌は人間のコミュニケーションのためのものではないことも繰り返しお話ししています。歌はそもそもは祈りです。祈りは、自分に向かってする願いとは別のものです。願いの行きつくところは我欲でしょう。歌は、祈りは神様的なものに向かっています。歌は一人で歌っていても自分に歌っているのではなく、神様に向かっているので、独り言のように閉じこもったものではないと言うことです。
だから自転車をこぎながら歌っている人が側を通っても避ける必要はないということになります。
歌うも喋るもどちらも言葉を使うものですが、歌うということと喋るということは向かっている方向が全然違います。意識のベクトルが違うのです。歌は上を向いています。ここでは上と言って置きますが、本当は後ろと言いたいのです。喋るのは前です。
独り言が、喋るという基本から見て危険な様に歌にも一つの危険が潜んでいます。
自分のために歌う、上手に歌う、喋る様に前に向かって、人に向かって歌うというのは歌の基本から外れているのです。
私が敬愛するレオ・スレーザークがシューベルトの歌を歌う時の気持ちを「礼拝」と言っているのは、今日的に見ればおかしな言い方かもしれません。が、そこに本来の歌の基本があります。却って現代的な前に向かって、聴衆に向かって歌う歌が、歌本来からすれば危険なのです。何時間もカラオケの個室にこもって歌うのは、我欲が優先していると要注意です。
しかし基本的には歌というのは相手に対して歌っている時にも相手の上の部分に向かって歌っているものです。自分に向かって歌おうと、自分の中の上なるものに向かって歌っているのであれば健全なものです。
音楽がまだ歌との結びつきが濃い時には、音楽は社交娯楽のためのものではなく、上のもの、神様的な存在と繋がっていることを確認するためのものでした。
言葉もまだ歌だった時には、上のものと結びつきが意識の中にあったのです。言葉は歌からは離れ人間社会のコミュニケーションの道具になって行きました。
音楽も大きく見れば今はコミュニケーション道具といっていい様な気がして仕方ありません。
音楽が歌の精神を取り戻し、言葉が歌われる様になる時が何時の日か来るのでしょうか。その時、きっと人間の意識も変わっている様な気がします。