自我と無
どうしても書いておかなければならないことを探して見た。
やはり自我のことだ。
自分のことではなく、自我のこと。
自我という崇高なものだ。
自分というのは自我の一部とみなしてもいい。
だから、解りやすく言うには、自分をどんどん深めて行ってください、ということにしている。
そして行きつくのが自我の領域です。
自我のことを言っておかないとと思うのは、自我が人間にとって、始めで終わりだからだ。
自我という言葉に躓いている人もいると思う。
西洋から出てきている言葉だから、西洋的な考え方で整理されている。
西洋的とはいっても世界を包括しているわけではないから、補う意味で東洋的な自我?のことも行っておかなければならないと思う。
ただ東洋には自我の様に、自分を出発点とする考え方はないから、自我という言葉はどう見ても東洋的ではない。
東洋にもものの始めと終わりがある、それが無だ。
東洋は西洋の自我を理解しようとした。
哲学という世界でだ。
西洋は東洋の無を理解しようとし始めている。
そういっていいと思う。
まだ始まったばかりだが・・
私個人としては、無が西洋に理解される時、西洋が変わると思っている。
西洋の気付いた歴史の延長に、無はない。
今の西洋のままでは、無は説明できても理解できるものではない様な気がする。
西洋特有の説明、これが西洋的な力だが、それと無は無縁の様な気がする。
無の理解は、説明で理解できると信じているものが、勇気を持って匙を投げたとこから始まるからだ。
自我は自分が理解するという延長にあるが、無は自分で理解することは全く眼中にない。
無は存在していることを証明するのでも、説明するのでもなく、直観する。
向こう任せにだ。
東洋はそうして自分を超えてきた。
私にはその様に見える。