続 自我と無
2011年12月17日
ものにはいい方がある。
レトーリックという。
こんな具合だ。
自我でもなく無でもなく。
しかしこれは否定的な考え方だろう。
自我か無か。
これは取り合いで、喧嘩の様な感じがする。
自我でもあり無でもあり。
これがどうやら一番私向きの様だ。
自我というのは能動的。
自分のほうから積極的に外に向かって働きかける。
無といのは受身的。
相手任せの消極的な様なところがある。
そもそもみんな両方を持っている。
しかし現実には持っているのにうまく使えないでいる。
使い方を間違えると落とし穴に落ちてしまう危険もある。
ちなみに自我の落とし穴はと言うと、とても豪華にできていてまるでお城の様だ。
至る所に鏡があって、映っている自分が見える仕組みになっている。
だから着飾りたくなる。
着飾った分見栄えがよくなる。
見栄えのいいのは服ばかりでなく、言葉も見栄えがいい。
要するに見栄っ張り、ということ。
無の落とし穴はというとこれはちょっと違う。
そこはすぐに落とし穴に落ちたちと解る仕組みになっている。
しかし居心地はあまり良くないから、そこに居る間反省ばかり、「自分がいたらないから落とし穴に落ちてしまった」と。
実に謙虚である。
落とし穴に出るのは自分が出る時期が来れば自然に出られると思っているから、その時を待っている。
この二つ、ご存知だとは思うが、みんなの中にある。
私は、自我でもあり無でもありだから、この二つを一つにしたいと願っている。
この二つ、お互いなかなか頑固で曲者だから、力任せで両方から押し合っても決してまざらない。
そこで私が思いついたのは融合だ、つまり融かすことだ。
二つを溶かして一つにする、そんな力が要る。
それを探している。
なんだかとても熱いものの様な気がする。
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