外国語と他人

2013年7月24日

外国語の勉強の仕方は人によって違いはあっても、習うより慣れろだけは誰もが実践しているものだと思います。

他人も習うより慣れろかもしれません。

 

習うというのはその通りにするということです。習字の時に先生の書かれた字を下に敷いて、その上に半紙をのせて、下の先生の字をそのまま写したものです。

人が言っていることをそのまま受け入れることでもあって、一見受け身的な、消極的な印象を持ちますが、そうではなく、相手の挙動を細かく観察するわけですから、非常には積極的な働きかけがなされています。

外国語もその言葉が言っていることを、その言葉が言いたいように理解するわけですから、外国語を受け入れる仕事がスムースに行かないと、突っかかってしまいます。生まれながらにして喋っている言葉に私たちは慣れ親しんでいるので、しかも幼いころからの訓練が身を結んでいるので、身に付いたものになっているのですが、外国語を習い始めた時と言うのは、ははじめて買ったスーツを着る様なもので、なじまないのです。

 

ある時点からは他人が鏡という形で登場します。他人のふり見てわがふり直せの様ないい方はまさにこの典型です。実際に他人からしか習えないです。

自分が自分の鏡になれるのは、稀に天才と言われる人に見られることかもしれませんが、それも疑問です。

天才の残した言葉を読んでみると、天才ほど他人から貪欲に、悪く言うと盗んでいるものです。やはりみんな他人から学んでいるのです。

 

学び下手がいます。ここで扱っている外国語に限らず、いろいろなことに当てはまります。

その人たちは自分にこだわれ過ぎているという印象を持ちます。自分と言う枠、殻から出て行かないで(実際には出て行けないという方が正しいとは思いますが)、自分流をどんなところでも通してしまいます。ですから、手仕事などを習う時にも、その仕事が何を求めているのかよりも、自分ならこうするというパターンでやってしまいますから、仕事をなかなか覚えません。

自分流と言うのは居心地がいい上に、他人から見ると大人げないという風に見えるのですが、本人は居心地がいいのでそこから抜け出そうとしないのです。

 

見方を変えれば自分にこだわるということです。それはとても損なことです。自分は自分を育てられないものだからです。自分が自分に自身に向かってできることと言うのは自分を守るだけです。

そこに他人が関係してこないと、自分は、悪くいえば腐ってしまいます。

 

自分を他人によって育てている人は明るさがあります。外国語で自分の言葉、母語を鍛えている人は、言葉が整理されています。二つがそろっていれば美しいです。言葉が美しいというのは、とても大切なことだと考えます。

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