心 続ユーモアの実践
ユーモアはセンスがないと駄目だと思います。
センスはどこで作れるのですか。
生まれつきのものもあります。
それのない人は。
無駄なことを一生懸命することです。
無駄と言うのはやっても意味がないでしょう。
勿論無意味ですよ。
そんなことは時間の無駄で出来ません。
それならやめればいいでしょう。
ユーモアのセンスは欲しいのです。
がつがつしても駄目ですよ。
欲しいと思わなければ手に入らないですか。
ユーモアは欲しいと思ってもすぐには手に入らないものです。
明日でなくてもいいですが、いつか手に入れたいです。
いつかと言うのは永遠にこないでものですよね。それにユーモアは自分でユーモアがありますと言うと、ひんしゅくを買うもですよ。
欲しがつてはいけないのですか。
たぶん。
努力のしようがないものですね。
無駄な努力はしない方がいいです。
努力を否定しているのですか。
否、そうではないです。無駄なことを一生懸命するのですから、努力が必要で、努力は賞賛しています。
意味があるとか無駄だと言うのは誰が決めるのですか。
社会の役にたつかどうかということではないのですか。
社会役に立つと役に立飛となのですか。
そういってもいいはずです。
社会は役に立つ人間ばかり育てたらそれを維持することしかできなくなってしまうのです。
ちなみに、それは役人根性で(個人的にお役人さんを攻めているわけではありません)、たいていは役に立たない人間が社会を変えてゆくのです。
それは不平不満があるからです。
そんな低次元のことを言っているのではないのです。発想の転換です。発想を変えようとした人間はいつも笑いものでしたよね。
ガリレオとかコペルニクスのことですか。
馬鹿とか気違いと言う扱いですから、社会的に見たら最低で、世の中の役に立つなんてことはみじんもない人たちです。
確かにそうかも知れません。