父のおやしらずの謎
父の周囲に珍しいことがありました。少し書いてみます。
92歳の父には自分の歯はすでにありません。総入れ歯です。
最近はその入れ歯も使わなくなっていて食べ物は歯茎でかんでいます。入れ歯を入れて食べるよりその方が味が分かって美味しいと言うのが理由です。
先週、父の口内検診があり、その際にここ数年定期的に来て頂いている歯医者さんから、「おやしらず」としか言えないものが奥歯の奥に生えてきていると言われました。
歯医者さん自身何度も歯茎を触っておられました。「骨より硬い」と何度も調べて、「歯に違いない」と仰るのです。しかも「親知らず以外には考えられない」と言う結論です。
実は母の判断で、この六月に父に対しての延命措置を拒否し、家で最後を看取ることにしました。肺に水がたまり、それを何とか処理できたものの咳と熱が続き、病院としては医療的なことを色々と考えておられた様です。胃から栄養をとる方法なども考えておられた様です。
その延命措置を拒否したことから、父は病院からは見はなされ、再び病院のお世話になることは出来なくなり、退院の歳にはお医者さんから「医療的見解からは余命二週間位です」といわれていた人です。
勿論その医学的見解を信じ、私はそれに備え7月は飛行機の切符を予約変更の形で押さえていつでも日本に飛べる体制を整えていました。
それがです、もう三ヶ月も生きていて、しかも先日来日して父の様子をこの目で見る限り、日に日に元気になっています。
すっかり健康人の様になってベットの中ですが人生を楽しんでいます。
7月が過ぎ、8月が過ぎ、9月がもうじき終わる今、命に別状があるどころか「おやしらず」が生えて来たのです。
このおやしらずに象徴されるように、父の顔色はつやつやとしていて、目もしっかりと周囲を見ていますし、新聞も読むことを再開し、健康状態はすこぶる良く、家族を安心させています。
ドイツを出る前は、「10月、11月に葬式になったら講演会を準備されて下さった方にご迷惑をおかけすることになるなぁ」と覚悟を決めて出てきたのですが、今ではその心配はどこ吹く風、家族を含め、介護で父を支えて下さっているほとんどの方が「この冬も元気に越せそうですね」と口を揃えて仰います。
医療が薦める栄養の考慮された点滴の代わりに、流動食といえども家庭の食事をする生活を送り、我が家と言う親しんだ空間で父はもしかすると新しい生きる意味を見つけたのではないのか、そんな風にも考えています。いや、そうとしか思えないのです。
肺の病気で苦しんだ五月、六月は父にとってある意味では最後ではなかったのかと思います。そのまま病院に止まって、医療的には完璧なものがあったのでしょうが、父はそのまま命を落としていたのではないか、そんな気がしてなりません。
医療と生命力について新たに考える材料を父からもらったと思っています。
そのときの写真の顔よりも、今の方が顔の表情にゆとりがあります。当時顔全体にあった緊張は今は見られず、こちらが冗談を言うと笑顔すら見せて答えています。笑顔どころか声を立てて笑うことすらあります。その笑い声の力強いこと、それを聞いていると父が92歳であることを忘れる程です。
父のおやしらず、一体何が言いたくて今頃出てきたのでしょう。
父のユーモアたっぷりの遺言の様な気がしないでもありません。
素晴らしい奇跡です。大きな意味があるとしか思えませぬ。