生きることの意味
義父の死を契機に、今まで曖昧だった思いに変化がありました。
その一つですが、生きることの意味は、「人間は死ぬ存在である」ということを通して一層くっきり照らし出されることをここに来て強く感じています。
生前の義父の姿は思い出の中にくっきりと生きています。笑顔の義父、難しい顔をしている義父などです。孫たちに囲まれている時の幸せそうな姿はとりわけ印象できです。
ここに来て、それとは別の義父が私の心の中で生まれ始めていることを感じています。義父の生きた人生、生きざま、人となりが、凝縮した形で心をよぎります。
これが、仏教的に言うと、人は死ぬと仏になるということなのかとも感じています。死ねばすぐ仏様だというのではなく、仏の世界に入るということと解釈しています。別の言い方をすると、死後十日が経ち、ここに来て義父と霊的に出会っている様です。生前は義父とは主に魂的に出会っていたということなのかもしれません。今はその魂的なものが凝縮し、結晶の様なものになりつつあります。
私たちは皆、いずれは死にます。死ぬということからいま生きていることを照らすこともできます。
自分もいつか死ぬというのは、全くの現実です。避けて通ることができないものです。ところが、いつ死ぬのかも解らないし、どの様な状況がその時あるのかも解らないので、どこか抽象的なものと言うのも事実です。
それよりも今回の義父の死の方が、生きること、死ぬことを改めてというより具体的に考える機会をもたらしてくれるです。その具体性に驚いています。それは今仏の世界を生きている義父、霊的に出会っている義父からの伝言だからかもしれません。
何故生きるのかではなく、生きるとはどういうことかと言う、暖かいぬくもりのある問いです。
何故生きるのか、何故生きなければならないのかと問うことはとても大切なことです。それをしないで生きている人はいないでしょう。ところが、それがどんなに大切なことだとしても、毎日の生活の中でそんなに頻繁に問うことのないものです。不思議です。
何故かと言うと、日常の雑多な思いの渦とは別の次元のことだからです。このことを問うことは程ほどにしておかないと危険です。人生の足元をすくわれてしまいます。そこにあまりに捕らわれてしまっては、日々の生活に支障が出てしまいます。
それ以上に、生きることを否定しかねないものです。
若い頃のことを振り返ると、まるで生きるのを拒むかの様に、「人は何故生きるのか」と言う問いを盾に、世の中に向かっていた様なところがありました。その時は正義感、「なにが正しいのか。正しいものに仕えたい。それは何処かにあるに違いない」と、どこかにあるのか解らないげれど「正しいということ」から生きることを照らしていたようです。宗教が言うところの正しさ、あるいは政治的理想主義は魅力的なものでした。若者の心をとらえたマルクスは、宗教はアヘンだと言っていますが、いましにして思うのは、マルクス主義も立派な宗教だということでした。生きることを肯定するのではなく、生きることを否定することに翻弄していたのかもしれません。正しいとか、理想と言うのは、人生を肯定するものなのか、否定するものなのか、どちらにもなり得る物の様です。
当時は生きることを否定することで生きることを探っていました。思春期を生きるとはこういうことなのかもしれません。
続く