光のデジャブとハンツ・ホッターの冬の旅
デジャブにどんな曲をと考えている時、冬の旅から何曲かと言うのは心の中で決まっていました。しかし大冒険ですから不安材料がなかったわけではありません。今まで歌以外で、一度だけですがヴィオラでシューベルトの冬の旅の全曲を聞いたことがあります。楽器で冬の旅を演奏すると期待して聞いたものですが皮肉なことにその経験が不安材料だったのです。
言葉がないシューベルトの歌なんて所詮そんなものなんだ、と言うのが正直に言うとコンサートの後の感想でした。
その後ずっと忘れていたのですが、シューベルトの音楽で六枚目のCDを作る話しが持ち上がった時に、その時の印象を思い出したのです。
でも私にはライアーなら行けるかもしれないという思いがありました。
ヴィオラはヴァイオリン属の楽器ですから弓で弦をこすって音を作ります。ところがライアーは弦をはじきます。
その違いは何なのでしょうか。
ヴァイオリンを弾く友人から、ライアーはいつもヴァイオリンで言うとピッツカートで弾いている様なものですか、と聞かれたことがあります。
彼はピッツカートは音で表情付けをするのが難しいし、どちらかといえば表現を抑えた地味な、抑えた技法なので、随分制約があるのではないですか、と首をかしげていました。
その時思ったのは、ヴァイオリンのピッツカートは音に余韻がないことでした。ポツポツとした音ですから、弓でこすられた弦の優雅さの様なものからは程遠いいものです。
ライアーは確かにピッツカート奏法そのものですが、楽器の作りが指で弾くことでよく響く様に作られています。そのことから根本的な違いがあると思います。リュートもギターも、そしてハープも、更に指ではなく爪で弦をはじくチェンバロも同じ様にピッカーと奏法といえるものでが、独自の表現力を持って、独自の音楽の世界を作り出しています。
歴史的には10世紀頃、弓で弦をこする奏法が生まれます。私はそれによって楽器が音学の中で独立した位置を占める様になったと考えています。楽器はそれまでは歌の伴奏楽器から独立したのですから画期的なことが起こったことになります。それは社会的な要求でしたから、その後ヴァイオリン属はヨーロッパの中心的な位置を占めて行きます。リュート、ギター、ハープが衰退することはありませんでしたが、中心はヴァイオリン属で、オーケストラを見れば解ります。
これ以上深入りしませんが、私たちの耳にはヴァイオリン属の音質は相当深く浸透しているのです。
私はライアーの持つごく限られた表現力の中で冬の旅を演奏したくなったのです。
その陰には二人の歌い手がいます。ハンツ・ホッターとレオ・スレーザークです。彼らが録音までの迷える中私を支えて居てくれていました。
ハンツ・ホッターは冬の旅を四回録音しています。私が繰り返し聞くのは二回目の録音です。ピアノ伴奏はジェラルド・ムーアで、この二人で歌曲集「白鳥の歌」も入れていますが、両方とも持っていたレコードは擦り切れるほど聞きました。
ホッターとムーアはシューベルトの歌のディープなところを聞かせてくれます。シューベルトは言いたいことはいつもきまってピアニッシモで言います。二人の演奏も、歌唱力をひけらかすのではなく、淡々と歌います。音量としてのピアニッシモではなく、音質としてのピアニッシモです。敢えて言うと、「歌わずに歌う」という最高芸です。劇的な表現効果を使って派手に歌われるのとは全く別の、まるで白黒の写真の様です。ライアーにも白黒写真の様なところがあることは感じていましたが、ホッターの冬の旅、ムーアのピアノ伴奏はライアーの音の上にすっぽりとかぶさってきたのでした。加えてムーアの淡々としたでしゃばらない伴奏がライアーでシューベルトをひ弾く時の手本になりました。表現に走らなくても充分表現できるのだという確信です。