ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲
私のブログでベートーヴェンのことを取り上げるのは始めてです。好きとか嫌いと言うより、ベートーヴェンと私の間には距離があり過ぎるためです。距離がせばまったのはほんの一時期、思春期の頃で、ベートーヴェンの七番のシンフォニーとかピアノ協奏曲第五番皇帝などは繰り返し聴いていました。
ベートーヴェンの音楽は闘争的な荒々しさが目立ちます。潜在意識の中のことで、彼自身にもどうすることができなかったものだとは思いますが、心の中にはどうしても戦わなければならないものが渦巻いていたのでしょう。音楽もそこを通らないと出てこられなかったのだと私は解釈しています。彼の音楽を聞いていると、戦いの様で、こちらに激しく向かって来てとても疲れます。
それなのになぜ今さらベードーヴェンなのか言われてしまいそうですが、今日取り上げるヴァイオリン協奏曲に少し前から何か違うものがある様に感じ始めているからです。極めつけは、しばらく眠っていた1958年にシュナイダーハーンとバウル・ファン・ケンペンが録音したレコードを取り出して聞いて、その素晴らしさに感動したことです。実はこのレコード買ってはみたもののひどい状態で、至る所に傷があり、CDに慣らされてしまったのでしょう、あまりいい思い出がなくほったらかしにしておいたものでした。シュナイダーハーンはこの録音の後オイゲン・ヨッフムとも録音していてそちらは聞くことがありました。キズもののレコードを聞くのは案外勇気の要るもので、遠ざけていましたが、聞き比べてみようと思い、勇気を出して聞いてみました。とは言っても第二楽章だけです。一楽章と三楽章は闘争が随所に登場しますが、二楽章はベードーヴェンには珍しく戦わずに音楽が進んで行きます。シュナイダーハーンの始めの録音の方はこの楽章の持つ深い安らぎを、驚くほどゆっくりのテンポで、誠実に伝えようとしていました。一つ一つの音に祈りを込めて、飾ることなくこの楽章を弾ききります。同じ演奏者なのになぜこんなに違うのかとこちらの方が却って驚いてしまうほどの違いがあります。
この楽章は、最後のカデンツに入り前に突然爆発するところはありますが、それでも全体としては静かな落ち着いた気分の中を音楽は流れます。音はどこからか来てまだどこかに消えてしまいます。ベートーヴェンには珍しく波風のない平和な時間が流れます。
勝手な想像ですがベートーヴェンは自ら子どもの頃の幸せな時期のことを思い出して、私たちにお話ししているのかもしれません。オーケストラによる序奏が少しあってその後ヴァイオリンが語り始めます。とても言葉数が少ない語り口です。もしかするとまだ言葉を知らない本当に小さい頃の自分と一つになって当時のことを思い出しているのかもしれません。
他の演奏者とも聞き比べてみましたが、他の演奏家でもう一度聞きたいと思うものはありませんでした。と言うのはせっかく言葉少なく語られているのに、「私はここですよ」と言わんばかりの演奏がほとんどだったからです。ピュアで無邪気なものを表現するのは難しいものです。大人の視点から当時を思い出して得意そうに解釈してしまっては大切なものが壊れてしまいます。
この楽章は「停止した時間」と呼びたくなる様なものがあります。思い出の中の時間はたいてい止まっているものですが、この楽章には思い出に共通の停止した時間と呼べるものがあります。止まっているのに動いている時間と言ってもいいかもしれません。
幼い頃のことを思い出している時、そこに登場するのは、自分自身であっても、人生社会にまだ足を踏み入れていない幼い存在者です。ですからこの楽章の演奏は、幼かった頃の、純粋でまだ無邪気な自分のことを懐かしく思いだしながら、小声でお話しをするようにしてほしいのですが、その様に演奏することが難しいのか、そういう演奏にはなかなか出会うことがないのです。
このシュナイダーハーンの素晴らしい演奏に触れて始めて、この楽章がシューベルトの晩年の弦楽五重奏の第二楽章に似ている音楽だということを発見しました。