時間の秘密
今朝、目を覚まして、ぼんやりしていた時には、今日は時間に余裕がありそうな気がしたのですが、終わってみるとそんなことはなく、なんだか今日も随分時間に振り回されて過ごしたように思います。思い通りにならないものって周りに随分あります。時間もその一つです。
目の前を通り過ぎてゆくものに振り回されるとむなしく一日を終わってしまいます。計画が大事だとは言っても、それにとらわれていては、予期しないで目の前に現れる大事なことを見逃してしまいます。
時間は身近なものですが、時間の持つ意味を考え始めると終着点のようなものは見えず、まだまだ解っていないことのほうが多いのではないのでしょうか。何が解っていないのかすら解っていないのかも知れません。こんなに身近なのに異次元的雰囲気に包まれています。いつも一緒にいるから、逆に解らないということかも知れません。いや、それ以上に時間の意味深さによるものです。時間には今と永遠とが同居しているため、一見矛盾していることが当たり前のように起こってしまうのです。
手伝ってもらいたくて友人に電話してお願いする時によくあることです。暇そうな人に頼んでも色よい返事は返って来ませんが、忙しくしている人ほど二つ返事で手伝いに来てくれます。
忙しい人のほうが時間はあるのです。暇な人は「時間がない」といって断ってきます。ふつうは反対を考えてしまいます。忙しいと時間がなく、暇な人ほど時間も持て余してているという風にです。常識と違うところが時間にはあります。
時間を通して物質的思考にがんじがらめになっている私たちの思考を解きほぐせそうです。
ということで時間のことをとりあげてみます。
時間を初めて哲学したのはアウグスティヌス、はじめて自伝といえる「告白録」の著者アウグスチヌスです。時間について考えた人が、同時に、自分について考えた人でもあったということですから、この二つは同じ根っこを持っているようです。何時何分という時間ではない時間、自分の時間に気がついたのです。そして自分とは自分にゆだねられているものだということです。
凧を上げて雷が電気だと証明したあのフランクリンは多彩な人で、当時のアメリカ憲法の草案を作るのにも参加していた人です。彼の名言として有名なのは「時は金なり」です。本意がどこにあるのかは、いろいろと解釈されていますから、却って解らなくなってしまいましたが、時給がいくらかというレベルの話しではないことは確かです。時間とお金、どちらも同じくらい不思議なものなのです。フランクリンはそのことを直観したのでしょう。お金持ちがけちと言うのもよく聞く話です。
暇な人は時間を使いこなせなくて、時間が自分のものになっていないので、時間がないのです。彼らが断る時、決まって「時間がない」と言って断りますが、端から見れば、首をかしげるだけです。要するに、時間は使えば使うほど時間を使いこなしているわけで、時間的に豊かになるのです。
将来、教育は子どもたちに時間を使いこなすことを教えるようになるでしょう。
シュタイナー教育が物作りを重視しているのはこのことと関係があります。物を作っているときの充実した時間、ここがそもそも教育の出発点だ、とこの教育は言いたいのです。更に、物を作って初めて自分も見えてくるものです。