父の遺言
父が我が家に安置されている間、死んだ人間の顔とは思えないほど自然な顔を体験していました。それは生前の父の魂のありようそのものでした。
亡くなった父は友引と言う、仏事に縁起の良くない日が二日後にあったため、葬儀が二日延び、我が家に五日間安置されることになりました。
その間に何度も父の遺体の横たわるベッドの許に行き顔を見つめていました。父の完結した一生をその顔の中に見ていたのだと、今にして思います。美しい陰りのない父の人生を、もう表情を作ることの無い、霊的と言いたくなる透明な顔の中にオーバーラップさせていました。静止した、微動だにしない顔と、一生を誠実さだけで生きた父の人生とが、今まで見たことの無い透明さで私に迫って来ました。
少し揺すって語りかけるとすぐに答えてくれそうに思えて、何度も話しかけてしまいました。昨年の秋に亡くなった義父の、どこかに苦しみをたたえていた顔とは違って、安らかな迷いの無い静けさは私の父との思い出を浄化してくれているようでした。今まで以上に父の人となりを感じ、照れ屋の父がやっと側に来てくれた様な気がして、だからこそ話しかけたくなったのだと思います。
一生を完結した父。そこには今まで以上の存在感がありました。
だからでしょう、父がどういう人だったのか、友に語りたくなりこうして書いています。
損得勘定には全く無縁の人でした。しかし一般的な言い方では、損を引き受けた人と言うことになりそうです。潔く、しかも当然の様に自然に損を引き受け、それでいてのびのびと貧乏を生きた人生でした。
損の意味、なぜ損を引き受けられるのか、そのことについて父と深く話し合ったことはありません。記憶する限りでは一度も無いと思います。例えそういう機会があったとしても、父はそのことを説明することはしなかったでしょうし、私にしてもあえて言葉にして話し合う必要を感じていませんでした。彼の行う姿の中にすべては集約されていたのです。だからあえて父とそのことで話し合わなかったのです。思春期の頃はさすがに「何故、他にいる親戚の中で父だけが、身寄りのない私の従兄弟や、一人残された父の叔母の世話をするのか、母の両親の世話を他に兄弟がいるにもかかわらず引き受けるのか」とても不思議でした。不思議以上に不愉快でした。父には一回りほど上の兄がいましたし、母には二人の弟がいました。叔母のことに関しても、他にも世話をしなければならない親戚の人たちは居ました。しかし、見て見ないふりをする人たちのことは気にせず父は、父がすべき仕事だと当たり前の様に、あっけらかんとしていました。そこには何の迷いも無かったのです。
父の生き方は迷いのない、潔のいい、愛情にあふれた人生でした。そこに子どもである私は口を挟むことは出来ませんでした。私も子ども心にそれでいいのだと感じていたからだと思います。
私が父を理解していたかどうか、父が何も言わない私に何を感じていたのか、私たちは無言でお互いに答えるしか方法を知りませんでした。今にして感じるのは父と私はどこかで同じ穴の狢(むじな)、同種人種だったのかも知れません。ですから、もし言葉にしていれば却って誤解の原因を作ることになっていたと思います。
逆に父がそうした状況を見て見ぬふりをしていたら、思春期が抜けた頃に、私の方から父に「なぜ放っておけるのか」と一言していたかも知れません。両親を失った従兄弟は親戚中をたらい回しにされていました。25歳からは精神分裂、統合失調症で入院と退院を繰り返します。一人暮らしで病弱だった叔母は家族の様に家に出入りしていました。最後はアルツハイマーでした。母の両親は我が家で幸せに余生を送っていました(共に享年91歳)。どれをとっても父に相応しい仕事だったのです。愚痴は言わず、他の人を責めることなく父は一途にその人たちの面倒を見ていました。
父は遺書を残しませんでしたが、唯一、「母と一つのお位牌に名前を連ねるように」とだけは私に託して逝きました。
若い頃は母に対して口うるさい父でしたが、亡くなる半年前から言葉になったのは母への感謝の気持ちだけでした。母が髪結いから帰ったときなど「別の人の様ですね」「今回は男性っぽいですね」とユーモアを交えて母のことを最後まで気にかけていました。最後の半年、父の命を支えていたのは、父を支えた母、彼の妻への感謝でした。「67年の間ありがとう」と彼は心の中で毎日毎日祈るように妻に言い続けていたのだと思います。
父の戒名は積行院慈雲日秀居士、お位牌の左には父の妻、仲淑子の戒名が入ることになっています。