月曜版 2 枕詞と日本文化
今日は私が日ごろから考えている日本的なものとして枕詞を取り上げてみます。
枕詞は万葉の時代よりずっと昔から用いられた詩の表現技法です。「奈良」という言葉を導く時に「あおによし」と前置きされます。あおによし奈良の都、と言う具合にです。他には「たらちねの=母」、「かむさびの=神」と100を超える枕詞が使われていました。
枕詞はそれだけ で詩の中に登場することはなく、いつもそれを受ける言葉と対になっています。「枕詞と被枕詞」という言い方がされます。いつも必ず対になるというところが 味噌です。万葉集の中には頻繁に登場する枕詞ですが、平安時代にはほとんど見られなくなります。小倉百人一首の中では万葉集からの歌の六つしか見ることができません。
万葉の時代と平安時代との間には大きな溝がありました。時代が平安時代まで下ると万葉仮名で書かれた万葉集を読める人はいなくなっていました。その間万葉集が禁書として表に出てこなかったためです。平安時代に再び読まれる様になった万葉はもう別の世界の物でした。平安万葉という言葉がありますが、そこで平安人が解釈した万葉集が確立され、それが後世に伝えられて行きます。私たちが今日読む万葉集はこの平安万葉です。
ここで枕詞を取り上げるのは、枕詞がかつての日本の詩的な表現を特徴付けるものだからではありません。枕詞的発想が日本の精神文化を支えているものだからです。枕詞は詩の技法としては消えても、枕詞の精神は日本文化の底辺を脈々と流れています。
枕詞が頻繁に登場するのは万葉集の中と言いましたが特に長歌に多くみられます。短歌が主流になると言葉の数に限りがあることと費用減が直接的になって行くので、万葉集の中ですら枕詞=被枕詞は無駄なものになって行ったのだと想像します。しかし枕詞の精神、枕詞=被枕詞の対で作る一つの世界は不滅です。そのまま生き続けて、今日の日本の中にさえ見ることができます。
包装の文化、包む文化は実は枕詞精神と同じ所から来ているものです。
日本に限らずものを包むという習慣・風習は他の文化圏にも見られます。しかし包むところで働いている精神は決定的に違うものです。ドイツで現金をやり取りする時、昔は何かに包んで渡したものです。戦前まではしっかりとその習慣は生きていました。現金を包まずにお札が見える様な状態で渡すとき、ドイツ語ではBargeldと呼ばれます。今でも「失礼ですが」と言葉を添えることがあるほどです。裸のお金ということで失礼だからです。
何かに包むところまでは、いろいろな文化の中で同じ様に行われているのですが、私には日本の包装文化には特殊なものを感じるのです。日本の包装文化は隠すために包むのではない筈です。
日本には古くからお土産などを独特なアイデアで包むことがなされています。ヨーロッパでもう20年以上前ですが、「五つの卵をどう包むか」というタイトルで、日本の包装の特異性、芸術性を浮き彫りにした本が出版されました。そこには、ただ包み隠すのではなく、包むことによって包まれたものが一層はっきりしてくるという面が強調されていました。藁で包まれた五つの卵は本当に美味しそうでした。
包装紙がごみにつながるということから包装紙は省略されているのが昨今ですが、文化として考える余地があるものだと思います。包装は文化として存在しているということです。しかもそれは日本人の中に脈々と生きている枕詞=被枕詞を生んだ精神と同じ所から派生しているものなのです。