木曜版 2 正真正銘の個性、それは笑顔
哲学の入門は「汝自身を知れ」です。簡単すぎると哲学者からは怒られるかもしれませんがこれに尽きると思っています。
自分を見つけなければ、自分に出会いたいと躍起になっても自分なんてものは簡単に見つかるものではないし、そもそも何処を探見したらいいのかすら解っていないものです。
それに、見つからなくても生きて行けるものです。
ただ、自分と向かい合うことをしなかった人生は幼稚さのオーラがあります。生きてきたことの充実感がないですから空っぽで、ざるに水を流している様で、人生経験、人生の智恵がたまりません。その場限りの刺激に振り回されているだけですから幼稚なのです。
自分と出会うのは頭のいい、わるい、お勉強が出来る、出来ないには関係のないことです。頭のいい人、勉強の得意な人に見られるのは自分を説明することに長けているということです。これは同時に「いいいわけ上手」につながりますから、却って自分から遠ざかってしまい、自分を生きることにはつながらず、自分を誤魔化す人生に陥ることがあります。そうなってしまっては虚しいものです。
重度の障がいを持ったお子さんをお持ちのお母さんから伺った話しです。その子が生まれてからずっと、毎日涙に暮れる、真っ暗なトンネルの中にいたのだそうです。ある日突然、涙に暮れている自分を無邪気な眼差しで見つめているお子さんの目と会った時にトンネルの中に光が差し込んで、「この子のために笑顔をつくらなければ」と気付き、その日から「涙の代わりに笑顔で生きる全く違う生き方をしよう」と決心したそうです。私が出会った時にはすでに笑顔が美しいお母さんでした。
この話しを聞いた時、仏教の悟りの世界に似ていると直感しました。
ある時アンティーク展示会に行って、そこでネパールの人が売っていた仏陀の顔を二つ買いました。同じ人間の顔とは思えないのが不思議だったので尋ねると、一つは悟りの前の仏陀でもう一つは悟った後の仏陀と言うことでした。悟る前の仏陀は真面目で、目を伏せて神経質そうな顔をしています。悟った後の顔は正面を向いていて、その顔から笑みが溢れています。人間味溢れた笑みではなく、安心感に溢れた安らかな笑みでした。悟るとはこういうことなのだと心の中に震えを感じて二つとも買ってしまいました。人間の法則、宇宙の法則と一つになった中で仏陀の顔には安らかさが漂っています。その笑顔から今まで知らなかった静かな、穏やかな喜びを感じとっていました。それは今は手許にはありません。それが必要だと思った方に差し上げました。
病気が快復の兆しを見せた頃、オランダで講演をした時のことです。講演会の後で主催をしてくださった方たちとお食事をしている時に、一人の方から大きな絵の複製をいただきました。それはグリューネヴァルトの描くイエスが復活した時の絵でした。その方は私の病歴のことを知っていて、私が今一番必要な力はこのイエスの顔だと思ったというのです。
家に帰ってその顔を見ていると、人間の喜び苦しみを超えた安らかさが伝わって来ます。何も心配することはないと言っています。何度も何度もむさぼるように安心感そのもののイエスの昇天する時の顔を見ていました。
躍起になって何かを探していた自分に気が付いた瞬間です。
それからはただのんびりと自分の出来ることを精いっぱいしているだけです。