月曜版 3 とっておきの英会話上達法
日本語はぺらぺらです。私が言っても自慢にはなりません。日本で生まれ日本語の中で育った私にとって日本語は空気の様です。日本語は難しいことを考えずに気がねなく喋れる有難い言葉です。
空気を吸う様に日本語が入ってきて、いつしかその言葉を話す様になり、気が付いた時にはペラペラになっていました。
日本語以外の言葉となると、いつぺらぺら喋れるようになるのか気の遠くなる様な話しです。習い始めは分厚い冬物のウールのオーバーを着てプールで泳いでいるようなもので、少しでも前に進めばよい方で、たいていは沈んでしまいます。
(ここで確認しておきます。普通母語と言いますが、私には使い勝手が悪く昔の母国語を使います。いつのころから「国」が国粋主義につながるとでも考えた人がいたのでしょうか、あるいはヨーロッパの言語を直訳すると「母語」になるからか、「国「が外されて母語になりました。ところが母語・外語とは言いにくいし、外国語の方は旧態依然「国」を入れたままで使われ、「外語」では何のことだから解りません。外語大と外国語大学の略称に使われることはありますが例外です。私は母国語・外国語という方が使いやすいのでここでは母国語と言わせていただきます。)
「ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」。これは石川啄木の一握の砂の中の有名な歌です。故郷を離れた啄木が故郷に帰って来た時の心境で、手に取る様に一人の人間の心情が浮かび上がって来ます。今風にいうと岩手山に啄木は癒されたのです。子どものころからいつもそこにあった岩手山、頑として動じない、もしかすると何もいわない岩手山が啄木を包み込みます。ここでふるさとは母なる存在、母国語の母です。ふるさとの別の言い方は父なる国です。同じふるさとでも父親として捉えられるとふるさとのニュアンスは違ってきます。
理解できる言葉と、いやされる言葉の間には雲泥の差があります。外国で生活して、そこの言葉で夢を見る様になれば無意識にまで言葉が沈潜した証拠です。外国語を聞いて癒される様なったらその外国語が母国語になった。そんなことは起こり得ないのです。懐かしいという気持ちになることはあっても、「ありがたきかな」と母を感じ癒されることはないのです。
私たちを支えている心は母国語を呼吸することで命をもらっています。気がねなく喋れる言葉は大きな力です。心が母国語を知らなかったら干からびてしまうのです。
巷には英会話教室が溢れています。猫も杓子も英会話で、何が英会話に駆り立てるのでしょう。英語コンプレックスの様な気がします。日本人みんなが英会話が出る様になる、それ自体は悪いことではないので、ここで取っておきの英会話の上達法をお教えします。私の場合は35年のドイツ生活ですからドイツ語ですが、似た様な言葉ですから役に立つと思います。
皆さんのまだ気付いていらっしゃらない極上の英会話の上達法は日本語を磨くことです。そこから言葉に対してのセンスが培われます。これが基本的なペースです。先ずは母国語です。外国の言葉がどのくらいできる様になるかは、どのくらい母国語ができるかで上達が決まるものです。ここを忘れると、砂の上に御殿を建てようとしている様なものです。