日曜版  6  尊厳について

2014年5月3日

日曜日には尊厳について書きたいものです。とても好きな言葉です。

先ずは自信につながるものですが、ただの自信とは違うものです。普通、自信は自分で納得するものですが、尊厳は自分で決めるものではなく、他力本願のように他の人が「あの方は尊厳がある方だ」と思うものです。本人はそんなことまったく知らない、というより意識することなく生きている場合だってあります。自分で尊厳のある人間だなんて思っている人は、全く逆で、下品です。

 

尊厳のある人には共通点があります。

自分を大切にし過ぎないです。自分なんかどうでもいいというのではなく、自分を大切にしながら、自分はどうでもいいという捨て身なところがあります。最近はいろいろなところで出会う人を見ていると、自分が可愛いくてしょうがない人が多く、そこを何とかできないものかと考えて「自分丸出しですね。自分以外に大切にしているものはないのですか」と聞いてやります。そういう人は自分の中ばかり照らしいて周囲は真っ暗、まるで闇の様なもので見えていないものです。そんな情けないのとは違って、自分の中も、周囲もしっかり照らせるのです。

自慢しないこと、自画自賛をしないこともその人たちの特徴です。どうせ生きるのなら自信を持って生きたいものですが自信は勇み足をしてしまうところがあるので要注意です。自信過剰は他の人からの嫉妬の原因ですし、信頼を損なってしまいます。基本的には他人のことを、ああだこうだと言わないですが褒めるのはとても上手です。無心に褒ているので傍で聞いていても清々しく気持ちのいいものです。下心を持って褒めるのは嫌味にもなりますし、聞いていて気分が悪くなり、よく聞くと自分をほめていることの方が多いものです。

海の様な人です。荒れた海の様に激しい人のこともあります。静まり返った大海原の様な人もいます。たいてい両方を持っていて、両方を上手に使い分けています。

その人の前に立つと不思議と自分が一回り大きく感じられるものです。その人に見られているというのが安心感につながり、自信が湧いてきます。

善人とは違いますが善悪は心得ている人で偽善的なことは皆無です。善悪を超えているのでしょう。悪いことに寛容で悪いことを許す中から新しいものを生み出せる、そんな人です。

皆さんの周りにそんな人がいたら、皆さんは幸せな人です。

 

尊厳のことを書きながら畏敬の念ということを思い出しました。

シュタイナーの幼児教育の要は畏敬の念です。これは方法として示唆できるものはなく、マニュアルで説明できない教育者泣かせのものです。ではそんなものないのかというとあります。周囲が小さな子どもを畏敬の念を持って見守ることによって安心と自信が育まれます。畏敬の念は教育標語やスローガンになってはいけないものです。それではせっかくの畏敬の念が堅く冷たいものになってしまい子どもは怯えてしまいます。畏敬の念は心から敬うことですから、子どもという存在を愛おしく見守る温かさの中に生きているものです。

周囲の温かい眼差しがもたらす安心感に包まれて子どもの中に自信の種が植えられます。その自信を将来自分でもう一つ上のランクに持って行けるかどうかはその人の努力次第です。

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