木曜版 7 問うことの楽しみ      

2014年5月15日

考えて解ることと考えたら解らなくなるものがあり、そこのところの調節の仕方を心得ている人が人生経験者と言えるのでしょう。

考えて解ることは答が出るもので、考えたら解らないものは答えのないものと先ずは曖昧な言い方をしておきます。

 

ただ考え方にはいろいろあり、初めから答を出すために考えるという方法もあります。何が何でも答を出してしまうというものです。答は正しくても間違っていてもよく、答があることが求められています。私には暴力の様に見えるものですが、今日の大半の考えるという行動には答が求められていますから、何が何でも答を、時には答えらしいものを見つけ出さないとおさまりがつかなくなってしまうことだってある様です。

白紙で答案用紙を一度出したことがありますが、答を出さないで問いを見つめている間いろいろな思いがよぎったものです。とても楽しい時間でしたが、0点でした。答えというのはそもそも応えることです。反応している時すでに応えているのですから、それでいいではないかという気がするのですが、現実はそれでは通らないのです。

 

答は質問と対になっています。質問がなければ答がないのは当然です。

よく言われるのは質問の中にすでに答があるということです。

ということは問いが出せなければ答えもないのですから質問の方が大事ということです。大事というか初めに問いありきということです。

 

人生は問い続け悩み続けるものです。答が出ないものです。かといって周りに振り回されたり、白昼夢の様な状態にいるだけでは充実感がないものです。そこで何をするかというと、自分という感触のある中心点が欲しくなります。中心点は強引にこれがあなたの中心点ですと言って他の人の力を借りて作れるものではなくて、何処までも自力で作るしかなくて、しかもそこで力になるのが問う力です。問い続けるのです。何処まで問えるかによってその人の人となり、人格が決まって来ます。問う力は知的能力からだけでは作られなくて、感性、英語で言うとセンスによるものです。お洒落のセンスという時のセンスです。頭が良ければお洒落のセンスがあるかというそうではなく、料理のセンスもしかり、車の運転のセンスもしかりです。特に車の運転は頭で考えていたら事故ばかりです。問うセンスは頭ではなくて、その人の素直さにあります。素直は透明です。透明は能力です。問う能力です。人格形成に欠くことのできない能力です。

問うというのは内なる存在に気付くところから始まりす。小さな子どもが「どうして」、「何故」と言い初めたところから、人間は心の中にある存在がいることに気付きは始めたのです。初めは単なる予感でしょうが・・。

誰に問うのか、勿論内なる存在にです。問いはいつもその内なる存在に向かったなされているものです。迷った時に道を訪ねるのは、外を歩いている人にですが、「なぜ」に迷った時は内側に入って行かない限り答はないものです。

 

内なる存在は答えそのものだからです。

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