待つばかり

2014年7月30日

夕飯時にお腹を空かした子どもに「もう少し待ちなさい」とお母さんが言えば、子どもは猛烈な勢いで食ってかかってきます。禁句です。お腹が空いていることもありますが、子どもは待つなんて考えたこともない、待てない存在です。

子どもを深い所から総合的に理解するために大切なところですから、教育者はそこをしっかり押さえておくべきです。待つという、一見、些細に見えるものですが、人間はそこに欲望と理性の葛藤を表現しています。待てるようになっていく、そこに子どもの成長が読みとれるということです。

ということで、大人になると待てるようになります。キップを買うのに並んだり、美味しいワッフル、美味しいラーメンのお店の前で並んだり、ということが出来るようになるのですが、待つというのは案外、複雑な構造をしていて、大人になったから待てるようになるというものではありません。例えば、待つのが我慢するというニュアンスがあるうちは、まだ初歩的です。待つことが我慢から抜け出すと、一人前です。欲望に対して理性が勝ったと言っていいのかもしれません。

待つ。これは大人の味がするものです。待つというテーマで映画でも作れば、なかなか渋い、いい映画ができそうです。どなたか一緒に作りませんか。

 

待つというのは、太古の昔から変わらず、子どもはできなくて、大人になるにしたがって出来るようになったのです。スピードが強調される現代社会に特徴的なものに見えますが、今に始まったものではないことも承知しておかなければならないことです。

とは言っても、待てない傾向が、最近の10年の間に目につく様になっていることは事実です。ファーストフードのお店が凄い勢いで増えています。お店に入って注文すると、すぐに食べられるというシステムは、今や当たり前です。車から降りずにインターフォンで注文して、お店を一回りすると出来あがったものが出てきて、そのまま車の中で食べられるんです。子どもと行くには、一番、都合がいいレストランです。スーパーでもインスタント食品、冷凍食品が増えています。チンしてすぐに食べられるというのが現代の日本の食文化の現実です。

ファーストフードは、経営サイドから作られた習慣です。これは、忘れてならないところです。早く、早くというのは人間がそもそも持っている傾向です。ファーストフードのお店は、そこをうまく突いてきて、商業的に成功したと見るべきで、人間が待てなくなって、社会にファーストフードが増えてきたとは、結論できない様です。

待つことの価値観が変わっていることは、ありそうです。待つことが、無駄な時間を過ごしていると感じられる人がいるのです。ある劇場の支配人が、暗転の時間が長いと、お客さんからブーイングが出るんですと、言っていました。テレビ映画の画面転換が、昔とは比べ物にならない位のスピードですから、それに慣れている人たちが、舞台の暗転、幕間に慣れていないことも大きいと思います。しかしこの暗転、幕間の味を覚えると、そこに舞台でなければ味わえない深みをもたらす要因があることが、解って来ます。

 

どうしたら上手に待てるようになるのか、考えてみました。上手く行けばそのためのエクササイズでも考案して、特許を申請してみようかと思うのですが、よい方法が見つかりません

 待っている時、何が起こっているのでしょう。我慢というのは度外視しましょう。何も起こってなんかいない、無駄な時間だというのも、度外視していいと思います。何かが起こっています。必ず何かが起こっています。その「何か」というのは、あるかないかで、文化に決定的な影響が出てくる程、力のあるものです。否、文化というのはその「何か」によって支えられているのです。「待つ」というのは文化の中枢にあるものなのです。

 

待っている間に、それも知らないうちに何かが熟します。それを説明しようとすると、時間に関わることになってしまいます。以前に、このブログの中でも、何度かテーマとして取り上げた時間の問題が、ここにはあります。それを読まれた方は、ご存知だと思いますが、時間は実に厄介なものです。

成熟した人というのは、別の言い方をすれば、待つことができる人です。きっと、待つことの意味が、その人の中では待つということが、ただ待っているのではなく、期待の様なものが生まれているのです。ドイツ語では、待つという言葉 Warten が生まれ変わって、Erwarten となります。待つが前向きになります。期待するという言葉は、ドイツ語でも、英語でも、女性の「おめでた」という意味があります。期待というのは未来に向かって何かを宿しているからです。

 

 

「待つ」という言葉、私流に解釈して「間をつなぐこと」としてみようと思います。

「間」は理解するのにセンスがいる言葉で、ぼんやりしている人には何度説明しても解ってもらえないものです。何もない状態、何でもない状態のことではないかと睨んでいます。空間的にも時間的にも「何もない」ということです。

いやはや大変です。何もないものに名前が付いているのです。まるで、この間、テーマにした神様、ゴットの様です。神様、ゴッドは、呼べば出て来てくれますが、「間」は、少し違います。呼ばなくてもそこにあります。しかしあるのですが何もないのですから、どうしましょう。

「間」は、物質的なものと、非物質的なものとの間を行き来しているものなのでしょう。

それをつなぐというのですから、待つというのは上等な精神的な行為ということになります。一つ間違うと無の世界に入り込んでしまいそうな高尚な言葉です。間と無とは親戚かもしれません。

 

人と話しをしていて、相手が無口の人だと嫌です。そんな時、間がもてないと言います。会話の流れが作れないからです。時間が流れていない様に感じるのでしょう。相手と自分の間を波の様に往ったり来たりするように動いてほしいのですが、お相手さんが無口ときていますから、こちらから出した話題にすぐは乗ってきてはくれないのです。だんまりの時間が過ぎて行きます。会話は沈没してしまいました。そんな時間がもてないというのです。

間が持たないという風にも使われます。文化庁の調べでは最近はこちらの方が圧倒的に多いそうです。

 

みつばちマーヤの絵本を書かれた熊田千佳穂さんは、ひと間の生活でした。熊田千佳穂さんを取材した友人は、埴生の宿の様な家に住んでいらっしゃいましたよと、言っていました。一部屋しかない家でした。真反対の例を出しますと、お城の様に何十も部屋がある様な家に住んでいる人と比べると、どうでしょう。部屋を持て余している時に、間をもて余しているというでしょうか。暇でしょうがなく時間をもて余しているという意味では使いますが、部屋を持てあましているという意味で使われているのを聞いたことがありません。

間という時、意識的には時間の方が優先しているようです。

空間的な間は、仕切りがあって、一つ一つが独立していますが、時間というのは、そもそもつながっているものですから、途切れる方が不自然で、途切れた時に間がもてないというのでしょう。

人間が、時間と自然な形で生きている時には、待つことは苦にならなかったということかもしれません。

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