わがライアーの音 シンプル賛
ヘンデルの音楽は歌にあり、しかも、いかにもシンプルに聞こえます。
しかし弾きこんでゆくとシンプルは簡単ということではないことがすぐに解ります。
恐るべきシンプルです。
というのか、そもそもシンプルは恐るべきものだと、解って来ました。
難しく言う人、理解に苦しむほど複雑なものは、実はよく解っていないのです。
含蓄のあるシンプルこそが、ライアー弾きである私たちの目指すところの様な気がします。
ヘンデルの歌のことは随分書いていますがまた書きます。
何故こんな単純なメロディーで、あんなに沢山のことが言えるのかということです。
それはヘンデルが音楽に通じている人だからです。
物に通じてた人の仕事は傍から見ていると本当に簡単そうです。
先日、包丁とぎの名人という人に包丁を研いでもらいました。
とても簡単そうに石の上をこすっていました。
すぐに私でもできそうなくらい、簡単に、ただこすっていました。
恐るべきシンプルでした。
お茶碗を作る人を訪ねた時、そこでも同じでした。
私を世間話をしながら轆轤の上に土をおいて、回し始めたと思ったらもう一つお茶碗ができているのです。
話している間に幾つも出来あがっていました。
名人とか名手とかいう人の住んでいる世界は、打てば響くような単純な世界なのでしょう。
うらやましいです。
ライアーという楽器、どうしたら簡単に、しかも含蓄深く弾けるのか考えてみました。
そこに辿り着かないと、ライアーを弾く人の人口が増えないでしょう。
今はまだ弾く人の数が圧倒的に少なすぎます。
もう何千人かの弾き手がライアーは必要です。
底辺が広がって初めて頂点が高いものになるということも考えています。
ライアーは透明過ぎるのではないか、そんな気がします。
その透明さに、思いの全てを預けられない様な気がするのです。
透明はライアーの利点です。
絶対的な利点です。
が、陰りがほしいと思うのです。
私はそれを余韻の中で探しました。
余韻を含み弾くことでなんとか別の響きを作りたかったのです。
ある程度は納得が行くものを感じますが、もう少し陰りがあってもいいかなと思うことがあります。
楽器にも工夫があっていいと思います。
特に最近のライアーは音がとても明るいので、陰りから遠ざかっています。
ライアーに限らず、ピアノチェンバロという楽器にも見られる現象です。
ライアーの弾き語りも考えてみました。
ライアーというのは意外と持ちにくい楽器です。
ギターのようには行きません。
ピアノ様にも行きません。
弾きながら歌うには適していないかもしれません。
悲観的になっているわけではないのですが、難しそうです。
あるいはライアーの伴奏をごくごく簡単にする方向で考えて行けば可能性ありかもしれません。
一音の伴奏をかつて子守歌の伴奏にあてたことがあります。
楽譜「ライアーはたのしい」の一巻に入っています。
今でもとても気に入っています。
ただ、それ伴奏として充分だと感じる感性が今はまだ育っていない様な気がします。
音の数が多いと優秀な音楽だというのは考え違いです。
一音がどこまで真実に近づいているのか、そこにライアーの真髄があるのですから。
さて、ライアーのシンプルさです。
皆さんもぜひ挑戦してみてください。
ヘンデルの歌には恋の歌が数多くあります。
六曲目はクレオパトラとシーザーが恋に落ちた時、クレオパトラが歌う歌です。
信じられないくらいのんびりしたものです。
このオペの中にはもっと激しいものもありますが、それはライアーでは弾けません。