森の静けさ 

2014年8月25日

森を歩いてきました。

ここのところ体調を崩していてどのくらい歩けるのか自分でもわからなかったのですが、寝ていてもよくならないし、森を歩きたいという気持ちが起きたので、友人に誘われたのをいいことに思い切って森に足を運びました。

わが家から車で15分程走ると、樹齢300年くらいの樫の木が何十本も生えている深い森の入口です。森はただ沢山の木が生えているだけの空間だと言ってしまえば、それまでのことですが、森には自然の力がみなぎっています。その力に触れたくて森を歩きたいと思ったのだと思います。

 

こんもりした人気のない所に来ると静けさがあります。他の何処からも得られない独特の味わいのある静けさです。それを感じたかったのです。静けさはドイツの森に必ず見られます。それは森の力と表現していいかもしれません。いや、それ以上に人間的な意味で精神性につながるものだと思っています。森と精神性など結びつくはずがないと考えている方もいらっしゃるでしょうが、この精神性と呼びたくなる何かは、読書や、音楽会、絵画展などでも得られるものとは違います。自然という材質が決定的な違いをもたらします。芸術は基本的には人工的なものですが、森は徹頭徹尾自然です。体調が思わしくない時この自然が生み出す精神性を求めていたのです。

 

芸術的なものは感性的であり、しかも精神的です。どこかに知性の臭いがします。感性で知性を克服しようとしていてもどこかに知性化を引きずってしまいます。ところが森の精神性は知性の産物とは違います。森の中を知的作業をする人の机の上の様に、あるいは出納帳の様にきちんと整理整頓することは不可能です。森はいつも混沌としていて、始めもなければ終わりもない、片付けた先からまた混沌が始まる、そういう世界です。しかしそこにはしっかりと法則が生きています。自然の法則です。自然は混沌の中に法則を持っているのです。

 

この意味でドイツの森は精神的な生きものと呼びたいのです。このドイツの森を歩いてかつてのドイツの思想家たちは色々なことをそこで感じたのでしょう。それがドイツの精神的なバックボーンを形成したと言ってもいいはずです。森を歩きながら、自分をその静けさ、精神性に預けてしまえます。混沌とした法則の中に溶けてしまいそうです。何も考えないで歩いていることもあります。まるで歩かされている様にです。町中の道路を車の排気ガスを浴びて歩くのとは違います。森は非現実的な空間ですから、歩きながら無心でいることも多くあります。とても不思議な開放感です。

 

歩き始めはしんどかったのですが森の力に触れて体が生き返ってきたようで、足取りはだんだん軽くなっていきました。特に雄大な大木から大きな力をもらいました。葉っぱの緑は八月になると新緑の時とは違って落ち着いた深い色に変わります。重い緑です。自然が凄いのは、一面緑とは言っても無数のニュアンスがあって、何処に目をやっても同じ緑などなく、長く見ていてもいつまでも新鮮で飽きないのです。前の日に降った雨で葉っぱが洗われていたので緑は一層輝いていました。その緑の海の間に現れる、太い、三人がかりでようやくわがつながる程の木の幹の組み合わせが絶妙です。森の中に生まれる自然メロディーです。木はそれぞれに生え方が違いますから、同じ様に垂直に立っていても枝ぶりから生まれる表情が違います。今日歩いた場所は木の種類の豊富なところで、大木になる木は、椎の木の他にはブナ、白樺、ハンの木、楡、松、栃、菩提樹です。樹齢300年になろうかという椎の木は遠くから見るとまるで人格を持った存在です。樹齢150年程のブナは、太さで言えば椎の木よりも太く、枝ぶりも高さも椎の木をはるかに超えているのですが、椎の木の存在感は群を抜いていて思わず手を合わせてしまいます。それ等の木の間を吹き抜けて来る風が場所によって違い、時には空気の中に味を感じることすらあるほどです。

 

森には森の時間が生きているのかもしれません。その時間は人間の中にもある時間の流れなのでしょうが、私たちの忙しい時間の中で、忘れてしまっているのかも知れません。森の時間は止まってしまった様な悠久の流れでそれが静けさを生んでいるのではないか、そんな気がします。そんな悠久の中を少々現実的な四季が折り重なって行く不思議な空間です。

日本だと森は鎮守の森として神社のまわりを取り囲んでいます。人間の時間とは違う時間をそこに作っているのでしょうか。そこに霊的な力が降りて来ると考えたのかもしれません。鎮守の森は霊的な力を湛えています。

 

私たちは、時々非現実的なものが必要です。音楽は極めて非現実的なものです。無駄なものもある意味では非現実的なものと言えるのかもしれません。非現実的な時間と空間を身近に得られる所、それが森なのかもしれません。

しかし、そこから沢山のものが生まれたことも事実であり、現実です。

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