心のこと その一  心に向きあう

2014年8月31日

心とは何なのでしょう。思えば子どものころからずっと知りたいものでした。大人同士が話しをしている時に、お互いの話しがかみ合っていないのを感じた時、心で話せばいいのにと思ったことがあり今でも鮮明に覚えています。

思春期の頃に、家族として私たち兄弟と一緒に育った11歳上の従兄弟が精神分裂と診断され、入院し、よく分からない中、従兄弟のこと彼の病気のことを通して精神という言葉に興味を持つようになり、心理学の本にたどり着きました。

従弟は私にとって未知の世界の精神病の人だったのです。

今でも心についてよく考えます。実に多くの時間を費やしている様な気がします。

 

その後も沢山本を読んだのですが、一番困ったのは、実は今も困っているのです、心理学の専門家は人によって言っていることが違うことです。学者さんたちは普遍的なことを言っていると自負しているのでしょうが、自分の流派の中に閉じこもっているだけという印象をぬぐい切れないのです。ほとんどがその人が前提している所からの話しになってしまいますから、いろいろ読んで、幾つもの流派の考えを知ると却って分けが解らなくなってしまいます。結論だけ言えば、心理学と名前は立派ですが心のことはいまだ謎だらけのようです。

余談ですが、医学もよく似ていて、患者さんのことが分かって治療しているとは思えないことが随分あります。私自身の経験からも言えることですが、誤診とまでは行かなくても、患者さんの中で何が起こって病気になっているのかを分かって診察しているお医者さんがどのくらいるのか、その辺のところを数字にしたら病気になってもお医者さんに行く人がいなくなってしまうかもしれません。

 

 

ちょっと意地悪に、悲観的に言い過ぎたかもしれません。

心についてみんなに考えてもらいたいです。心の知ることはとても大事なことだと思っているからです。

次の「霊的世界との共存というステップ」に行くために、どうしてもクリヤーしなければならないことだと思っています。ですから様々な科学が、学問が、宗教が思いを一つにしなければならない時が来ていると言っていいと思うのです。

二十一世紀は精神文化の世紀などと言われて二十一世紀を迎えましたが、興味を引く霊的現象に振り回されているだけというのが現在までの現実で、私たちが生きていることと霊との結びつきはには関心がないようですので、そのレベルでは霊的世界との共存とは言えないのです。

まだ真剣に霊の世界に向き合ってすらいないのです。

 

 

日本文化には生かされているという考え方があり、自分が生きていることは何かに守られ、支えられていると看做しています。極めて宗教的です。形のない宗教と言ったらいいのか、かつてよく言われたように日本教なのでしょうか。

以前のブログで神様のことを書きました。神様というのは神様のことを思った人間にしか存在しないと述べましたが(2014年7月22日のブログを参照してください)、心にも同じことが言えるのではないかと思うのです。私たちは心から目を背けてはいなかったのだろうかのか?自分の心に真剣に向きあって呼びかけたら、心の方から「何でしょうか」と姿を現してくれるかもしれません。

 

 

物質文明が栄えて、物事が全て物質的なレベルで語られる様になると、心のように場所が決められないものは居場所がなくなってしまいました。

無いのかと言うとあるのです。始末が悪いのです。現代社会がこころにたてしてとっている姿勢、あるいはとらざるを得ない姿勢は、心を物質の世界のものとしてとらえることに終始します。その結果脳を研究する分野が発達し、心は脳神経の働きによるとか、その時出て来る物質によると語られる様になってしまいました。それで説明できるものもあると思います。しかし脳のメカニズムがそのまま心ということになってしまうと、実際の心から遠ざかってしまいそうで心配です。

実はそれでは物質主義丸出しなのです。                                                                         

 

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