わがライアーの音 ピアニッシモの力
ドビッシーに挑戦しました。
彼の音楽を弾きながら、今まで感じてきた世界と種類が違うことを楽しんでいました。
ライアーの弦を明るく、しかも存在感を持たせるところが主眼です。
上っ面な音は曲の方からはね返して来ます。
しっかりした重い音で弾くとよろい兜を着ているようになります。
印象派の色彩のような音楽ですから、光は外の光です。
外から来て外の輪郭を照らします。
ライアーの音も外の光を表現してほしいと思いながら弾いていました。
今までのバッハ、ヘンデルの光は内面のもので、ドビッシーの光はライアーの新しい境地の開拓でした。
ドビッシーの語りはドラマチックなものではなく、ことはきわめて淡々と運んで行きます。
ドビッシーのオペラは一つしかありませんが、そこでも劇的というよりは静かな流れです。
それはそれで立派なドラマです。
淡々の中に隠れたドラマがあるのですから曲者です。
そうした感性は日本的感性に通じるものがあるように思います。
録音している時にはギリシャで見た繊細な襞をイメージしました。
大理石の上に刻まれたものとは思えない流れる様なしなやかさがある襞でした。
亜麻色の髪の乙女はこれだけで弾かれることが多いですが、プレリュード集の中の一つです。
出だしはペンタトニックです。
このCDの一番初めのバッハのチェロ組曲からのプレリュードも始めのフレーズはペンタトニックです。
これは奇遇だと思います。ドビッシーがバッハ尊敬していたことは確かです。
しかし意識してペンタトニックにしたとは思えません。
音楽の質と方向が全く違います。
バッハのはこれから始まるぞとすこし気張っていますが、ドビッシーは、何かがようやく辿り着いたという感じです。
プレリュードはこれから始まることへの導入ですから、この曲の始まりは、始まり中の始まりです。
ペンタトニックの無色感、無重力が、これから何かが始まるという無邪気さにぴったりです。
この曲は全音符を使っ伸ばす音が随所に出て来ます。
ライアーを始めギター、リュート、ハープなどの撥弦楽器はこの長い音で苦労します。
音は続いているのに、弦をはじいたらそれからは残音、余韻に任せるしかないからです。
物理的に見たらそういうことですが、音楽は物理的なものだけでなく、それ以上のものです。
意識の持ち様で余韻の質が変わります。
物理的な音は消えてしまいましが、意識の音と呼んでいいものが鳴り続けています。
ここがライアーの音を生きものにするかどうかの分かれ目です。
上手な人ほど意識の音を使いこなしています。
ライアーは余韻の長い楽器ですから、その利点を有効に使いました。
落とし穴は間延びしてしまうことでした。それではドビッシーの光が輝きません。
そもそもこの曲に取り組むきっかけはギターのセゴビアの演奏でした。
セゴビアのこの曲の録音をレコードでしかもっていなかったことが幸いしています。
古い真空管の音で聞いたセゴビアの亜麻色の髪の乙女は光輝いていました。
この光はライアーでも弾けるとその時確信したのです。
しかしライアーにはライーの世界があることは録音中に何度も直面した事実でした。
ライアーの世界をもっと知りたいとも思いました。
まだ生まれて間もない楽器です。
ライアーが楽しめる時代が始まったのです。
ライアーのための曲が欲しいと多くの人が願っていることと思います。
それらが、まだ眠っている見知らぬライアーの世界のヴェールを開いてくれることを祈っています。