私の音楽から 「光のなみだ」をめぐって
涙といえばこの曲でしょう。
涙のパバーヌです。
ダウランドの超有名な曲です。
彼の音楽はこの曲も勿論ですが、どれも大胆な音楽です。
ここで言う大胆というのは解りにくいかもしれません。
捕捉します。
今でいう転調に当たるものかもしれません。
しかし当時は転調という考え方はありませんでした。
したがって大胆と感じるものをどの様に説明すればいいのやら、と迷ってしまいます。
中世的なおおらかさも加わって、悩まない歯切れのいい、大胆さです。
合理的というものと遠く離れているものです。
ダウランドの曲に今風の和音を付けて演奏してみると、彼の大胆さが浮き彫りになります。
「涙のパバーヌ」という曲は今でいう大ヒット曲でした。
当時いろいろな人にインスピレーションを与え、いろいろなバージョンが生まれています。
丁度器楽曲が上り坂にある時期で、この歌もすぐに器楽曲様に編曲され、更に変奏曲が付いて膨らみました。
それぞれが味のある音楽になっています。
若いころに聞いた、リコーダー一本で世界を制したフランツ・ブリュッヘンの演奏が懐かしく思いだされます。
ブリュッヘンの演奏はどちらかと言うと東洋的な息遣いの中で音楽が広がります。
当時は目からうろこの演奏でした。
録音する時には両方を弾きました。
しかし器楽曲のほうのは魅力的な音楽づくりが展開する一方で技巧的に凝り過ぎていました。
職人芸、名人芸がふんだんに取り込まれ複雑です。
さながら超絶技巧の様な世界に巻き込まれそうでした。
ライアーで弾くにはライアーのいいところが生かされないのは明らかです。
結局オリジナルの歌の方からの「涙のパバーヌ」になりました。
それと、何よりもアルフレッド・デラーの歌が耳から離れなかったのです。
私がライアーで弾く時にはテンポの設定が仕事の半分といってもいいのです。
デラーが歌う時もゆっくりです。
ブリュッヘンの演奏もゆっくりです。
しかし両方とも呼吸がテンポを支えてくれるので可能な「ゆっくりテンポ」なのです。
ライアーのゆっくりは別物です。
ゆっくり演奏した時曲が、曲のイメージが維持できなくなる危険があります。
ゆっくりがただ間延びしたものでは台無しです。
今は何でも次へ次へと移って行かないと駄目な時代です。
劇場では、場面が変わる時の暗転の時間を昔よりもずっと短く設定しないとお客さんから苦情が出るのです。
音楽も早いテンポのものが好まれています。
たいていの人はゆっくりに堪えられないのです。
これははっきり言えば病気です。
その向こうを張って敢えて「ゆっくり」を慣行しています。
ゆっくりでしか表現できないものがあるからです。
健康の力と言えるものです。
それに加えてライアーという楽器が持っている絶対テンポも重要です。
ライアーを普通のテンポで弾くと、ライアーはおもちゃのような楽器に鳴ります。
とても子供っぽい音がします。
音に深みがないところがとても気になります。
少年合唱団の様なものに近いと思います。
それでは木に針金が張られた楽器にしか過ぎないのです。
ライアーは大人の弾く、本物の楽器で、一番の確信は弦が呼吸します。
私は弦が呼吸することを発見してから、ライアーの絶対テンポのことが解って来ました。
今ではそのテンポに従って弾いています。
早く弾かれたライアーは聞いていて苦しくなります。
まるで喘息の人の呼吸を聞いていると苦しくなるのと同じです。
デラーの歌以外にも随分「涙のパバーヌ」を聞きました。
ライアーのテンポにインスピレーションを与える様な歌い方にはお目にかかれませんでした。
何故みんな大急ぎで歌うのでしょうか。
特にブレスが気になりました。
デラーの歌にはブレスが聞こえないのです。
何故みんな大急ぎでライアーを弾くのでしょうか。
音が熟する時間を作らなければライアーの音は死んでしまいます。
あるいは熟さない表面的な音しか弾かないことでゆっくりを避けているようです。
ライアーに相応しいテンポのことを考えると、ライアーはまだまだこれからが楽しみな楽器だとつくづく思います。
ライアーは時間を感じさせる楽器と言えるのかもしれません。
現代が失しなった物の中で一番取り戻したいのが時間です。
その時間をもう一度感じさせてくれるのがライアーです。
そんなつもりでこの曲を聞いていただけたらとてもうれしいです。
この内は悲しみの涙を歌ったものですが、現代人の心理学的に説明された悲しみとは違います。
意味もなく湧きあがる涙、そんなものがかつてはあったのです。