沈黙から言葉へ、言葉から沈黙へ その四

2014年9月25日

11世紀、ドイツでの話しです。南の方のある領主が生まれてすぐ親に捨てられた子どもたちを城に集めて育てました。その子たちに食事、着る物などを与え手厚く育てたのですが、世話に当たった乳母たちに領主はある一つのことを禁じたのでした。

領主は人間が言葉を覚える仕組みに非常に興味を持っていました。幼い子どもが周囲から言葉を一度も聞かないで育った時、どの様な言葉が子どもの口から出てくるのか知りたかったのです。ドイツ語ではない他の言葉が出てくるかもしれない、もしかしたらそんなことを考えていたのかもしれません。

乳母たちに禁じたのは子どもたちに話しかけることでした。子どもがいる前では乳母同士も喋ることは禁じられていました。

 

子どもたちが言葉を喋りらなかったのは理解できます。ところがそれだけではなかったのです。子どもたちはみるみる元気がなくなって行き、四年もたたないうちに全員が死んでしまったのです。

 

充分な食べものが与えられ、着る物にも不自由していませんでしたから、死因を栄養失調や凍死ではない別のところに見つけなければなりません。

そこで浮き上がってくるのは言葉です。言葉に触れることがなかったためと考えてみてはどうでしょう。

ただ今の医学にとって言語欠乏症、言葉失調症は死因ではなく、そんなことで人間が死んでしまうなんで考えられないことなのでしょうが、私は子どもたちが死んだのは言葉に接することがなかったことよるものとみています。

 

誰一人子どもたちに話しかける人がいなかった、この事実が私の胸を締め付けます。それが実際にはどういうものなのか想像の域を出ませんが、言葉のない中で幼い子どもたちがどれほどの寂しさに耐えたのか、親に捨てられただけでも充分寂しい幼い心が、すがるものが何処にもない救いようのない不安の中でどう生きたのか。襲いかかる大きな不安に子どもたちは押しつぶされてしまったのです。どれほど言葉に飢えていたか、語りかけて来る言葉があれば、どんなにか救われたのか。想像するだけで奈落の底におとされる様な心地です。

 

言葉というのは意味を伝える道具といって済ませられるものではないようです。人間が生きること、人間の生命活動に深く関わっていて生きる力らになっているのです。

言葉の習得といえば思考による知的な作業のように言われていますが、知的な能力は語彙を増やしたり、言葉の意味を明確にする時には必要なものかもしれませんが、生まれて間もない本当に幼い時期には、意味の道具以前の言葉と出会っているのです。その出会いは意志と呼ばれている力で行われているのです。

 

幼い子どもにとって言葉を聞くというのは言葉を食べることかもしれません。

彼らは言葉を聞いてそれを消化し新陳代謝しそこからからだを作り生命活動をしているという風に考えたらどうでしょう。言葉を聞くことのなかった子どもたちは言葉を食べそれを消化してそれを生きるエネルギーに変えることができなかったのです。それで体はだんだん衰弱しついには死んでしまったということになります。

 

幼い子どもにとっての言葉の習得には言葉の新陳代謝という考えを導入しなければなりません。知的な能力は意志によって言葉と出会った後言語能力を拡大するところでは大切ですが、言葉の習得という言語生活の出発に当たって大切なの言葉との出会い、言葉を食べる、そして消化し新陳代謝するというプロセスです。それをを頭に入れておく必要があると思います。言葉の習得の立役者は意志なのです。 

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