台風の目

2015年1月17日

言葉に見放された何カ月かでした。私のつたないブログでも楽しみにしてくださっている方がいることを、たびたびいただくメールで知りました。ありがとうございました。とても励まされました。しかしお財布に一銭もないので買いものができない様な状態でした。

 

言葉は、言語学が説明するものとは違う観点から言いますが、厳密に見れば二種類あります。表面的にはほとんど区別のつかないものなのですが、言葉のセンスが磨かれて来ると大きな違いにが見えて来ます。

用を足すための言葉は日常生活を営む上に大切なもので、私たちの言語生活の九割、あるいはそれ以上がこの言葉といっていいものです。ところが言葉はそれだけでは無く、日常生活にはほとんど出没しない側面をもしっかり持っているのです。その言葉は割合からすればごくわずかですが、人間の精神性を支えるという大切な仕事を担っているので、ないがしろに出来ません。日本語だけの話しではなく、英語もドイツ語もスペイン語もアフリカの言葉もみんなほとんど同じ様な構造になっています。

 

日常使う言葉を、台風に譬えれば、風が吹き、雨が降っているところといっていいのかも知れません。そしてあのないがしろにできない言葉は台風の目です。両方があって台風で、目が無くなってしまえば単なる熱帯性低気圧ということになって、ただ風が吹いているだけ、雨が降っているだけという天気現象に過ぎません。目があって初めて台風なのです。人間の言語生活を台風に譬えたくなるのは、人間の心、魂というものが台風の様なものだからです。たいていは暴風雨圏の中で吹き荒れているようです。修行が積まれて来るとだんだん台風の目に近づいて行き、目の中に入れば真っ青な抜けるような晴天です。

 

動物にも言語があるという言い方を認めたとして、その時の言葉はどの様なものかと言うと、天気になったり雨になったりという気象現象の様なものです。人間だけが台風を内在しているのです。暴風雨と目の両方を持っているということです。

 

言葉から見放されていたということは、しばらくは暴風雨圏の中をさまよっていたということなのでしょう。激しい風に吹き飛ばされ、雨に洗い清められていたのです。今もまだ、目の中にいるのではなく、ようやく風が収まって雨も小ぶりになった程度ですから、また何時暴風雨圏に逆戻りするか分かりません。ふらふらで、思う様に言葉を掴み切れていませんから危なっかしいのですが、なんとなく独り歩きができそうな感じがしています。

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