ドイツの森、日本の庭、ヴェルサイユの庭園 そして芸術
春が来たので庭の話しです。
今は春たけなわでわが家の庭の手入れを迫られています。春の勢いは見た眼よりも実際に庭に出て、草をむしったり、木と仕事をしてみるとよく解ります。雨が降った次の日などは葉っぱの芽がいっぺんに吹きだして、冬の間は枯れ枝の様なところがあっという間に緑に覆われてしまいます。木によっては二三日で成就する程の勢いです。
庭の話しを以前あるドイツの雑誌に書いた時に世界の庭の様子を調べてみて気が付いたことがあります。庭は何処にでもあるというものではないということでした。非常に特殊な文化的なもので、畑でもなく、菜園でもなく、ハーブを作るところでもなく、と特殊な位置づけが必要なものだと分かりました。精神性の高い贅沢な遊びです。
日本では寺院には必ずといっていいほどに庭が付きます。私たちにとっては当たり前で、却って庭のない寺院は目的のために建てられているといった印象すら持ってしまいます。西洋のキリスト教の教会は庭が無いのが当りまえです。こういうところに文化の違いを見るべきではないのでしょうか。
庭が自然と寺院の間のクッションになっているのが日本です。日本的感性はこんなところにひっそりと宿っているのです。日本的感性はいつも直接的なものを好まず、間接的だということです。物を丁寧に包む習慣もきっとそんな感性から生まれたといえそうです。お札(さつ)はそのまま渡すと、裸で渡したことになります。包んで隠すのではなく、包んで更に中身を引立てるわけです。これは恥じらいの文化です。恥の文化ではありません。庭には日本人の「恥じらいの意識」が隠されているのです。
ドイツには庭文化が発達しませんでした。その代わりに森を庭の様な感覚でとらえています。「ドイツと森」という組み合わせは当たり前すぎて、観光パンフレットの宣伝にすら陳腐で使えない程ですが、それでも私は、「ドイツと森」ときっぱりと言いたいのです。実はドイツにだけ森があったわけではなく、数百年を遡れば、ヨーロッパは至るところが森だったのです。イギリスも同じです。文明が森を開拓したのです。森は人間の生きて行くための空間に変わって、そこに農業が生まれ、そして都市が作られる様になると森はどんどん人間生活の場から追いやられて行き、しまいには消滅寸前にまで追いやられたのです。今は土俵際まで追い込まれたところでしょうか。
そんな中でドイツは例外的に森を残しました。これは謎です。そして現代のドイツの森は当時の自然の森、原生林とは違い、日本の庭の様に自然の様に見える人工的な森として生まれ変わったのです。私にはドイツの森の中に寺院が無いのがいつも不思議でならないのです。週末天気のいい日にはドイツの人たちは迷うことなく森に出かけて行きます。今ドイツも教会離れが顕著ですから、森の方がはるかに多くの人をひきつけているといえます。やはり森の中に寺院を建てるべきではないのでしょうか・・。
アメリカにいった時に招待してくださった方たちが観光をしましょうと言いだして、さて何処に行こうかと話しをしている時、サンフランシスコから車でさほど遠くない、西海岸を薦める人が何人かいました。彼らは口々に、スイスのアルプス、ドイツの森の様に西海岸線はアメリカを代表するものだと主張したのです。そこでドイツの森のことが出てきたのには驚きました。ドイツは森で持っているのかと認識を新たにした次第です。
フランスは庭ではなく庭園、私にはどちらかというと公園の様に映ります。庭というのそもそも、日本の庭の様に自然を丸ごと模写した様な庭でも、作る時には厳密な設計図があって、基本的には人工的なものなのです。ドイツの森にしてもしかりです。庭師ではなく森師がいて森を管理しています。こまめに伐採があり、下草を刈りとり、植林が繰り繰り返されています。最近の傾向は雑木林です。ですからフランスの庭園だけが人工的というわけではないことは知っておくべきです。
しかしヴェルサイユ宮殿から庭園を見渡すと、美しさに感動する以上に、唖然としてしまい、幻惑すら覚えます。地上に異質なものがはめ込まれた様な印象すら持ちます。自然との接点を見つけることはありません。あるとすればそこには樹木が植えられ、きれいな花が咲き乱れているということ位です。しかしその木にしても、刈りこまれて、木本来の姿を見せるわけではなく、花も整理された花壇の中に整理整頓されて収っているのです。この極度に達した人工物を何処に位置付けたらいいのでしょう。
この庭園を見て先ず思いだしたのが、フランス語が人工的な言葉だということでした。知的に作られた言葉で、感情から迸るものが自然に言葉につながって行くのではなく、知的に整理された文法に従って心は言葉につながるのです。フランスは主知主義の生まれたところというのも興味深いです。何かつながりがありそうです。
現代人の思考のメインストリートを走っているのが知性と呼ばれるものです。勿論思考に情緒は禁物です。しかしこのメインストリートは今では何十車線にも膨れ上がって、脇道(これを情緒と見ています)を走る車はほとんどなくなってしまいました。その様子を思い浮かべながら、これからも知性が発達して行く余地はあるのだろうかと考えてしまいました。もしかしたら私たちが知性として特別扱いしてきた物は、近い将来コンピュータやロボットに肩代わりされてしまうものなのではないのだろうか。
今、人間とは何なのかを真剣に考える時期に来ている様な気がするのです。人間にしか出来ないことがある、これを探すことが今の私たちの大きな課題の様な気がするのです。
私はここで芸術のことを考えています。皮肉なことにフランスは主知主義と同時に芸術への深い理解を持っている国でもあるのです。この皮肉な矛盾が、逆になんとなく楽しく思えるのは、私が不謹慎だからでしょうか。