続々 月の話し
月にはリアリティーがあります。
日本語でいうと、今この時にそこにあるという存在感です。
太陽は全く違います。太陽の光そのもので我々を丸ごと包み込んでいて、我々は太陽の存在を意識できないのです。
しかも太陽を直視することはできません。
目が壊れてしまいます。
月は私たちを包み込むことはなく、私たちと距離を取りながら夜空に浮かんでいます。
月と私たちとは理性的な関係にあると言いたいのです。
そこから、月を見ていると落ち着くということが起こるのです。
月を Luna という時には情緒的、心に影響するものととらえられていました。
気違いの原因は Luna でした。
矛盾したことが起こっています。
月のことを英語ではmoon、ドイツ語ではMond と言います。
その言葉の意味をたどって行くと、時間を測るものという意味になります。
昔、人間は、月で、月の満ち欠けで、時間を測っていたのです。
太陽は一日という単位の時間を私たちに知らせます。
月は一週間(半月)という時間の流れと、一月(満月から満月まで)という時間の流れを教えてくれます。
昔横井正一さんがジャングルで発見された時、その日が何年の何月何日ということをはっきりと把握していました。
月を見ながら一カ月経つと木にしるしを刻みこんでいたのでした。
客観的な自分の姿を月は見せてくれます。
月を眺めている時、とりあえずは月を見ている訳です。
が、同時に、月から反射してくる自分の姿も見ている様な気がします。
とても意識的な時です。
これは昼間太陽と共にある時にはえられない意識感情です。
太陽は光そのもので、私たちはその光に包み込まれています。
あるいはその光に吸い込まれてしまっています。
意識化できないのです。
月は私たちの意識、特に客観的な意識を見せてくれます。
ライアーの音と月とがよく似合うのは、ライアーの音にもそうした、私たちを意識化する力があるからです。
ライアーの音が心を癒してくれるのは、私たちがその時、ふと、自分の姿に触れたからです。
普段は自分というのは意識しないものです。
自分がシャイだと言う人は気をつけてください。
意識過剰が原因しています。シャイは裏返ったエゴです。
普段は意識しなくていいのです。
自分に対しての意識過剰は病気になります。
しかし、時にはふと自分に帰りたくなる時が人間にはあるのです。
それはエゴという、自意識過剰とは違う、自分の姿に、自分自身の心の、存在の故郷に出会える喜びなのです。