オーケストラと指揮者の役割 、フェレンツ・フリッチャイ

2015年9月4日

先日、友人の誕生日のお祝いに電報のように短いメールを送ったら、その友人からメールで丁寧な返事が来て恐縮してしまいました。

そこにかつての名指揮者フェリンツ・フリッチャイのことが書かれてあって、久しぶりにこの指揮者のことを懐かしく思い出していました。

今日ここで、決して知名度の高いとは言えない指揮者フリッチャイを取り上げるのは、フリッチャイの指揮棒から生まれるオーケストラの音楽に今まで何度も感動してきたからです。調和のとれた、ビロードのようななめらかな優雅さが特に私の心に響くからです。

それだけでなく私は彼の音楽に向かう姿勢からたくさんのものを学んだと思っています。今でもシューベルトの未完成は彼の指揮によるものが、シューベルトが聞いた音楽に一番近い響きなのではないかと思っています。

 

若い頃、指揮者の役割は何だろうとよく考えました。「そんなものは無用の長物」と思っていた時期もあります。オーケストラの楽団員は選ばれた優秀な演奏家たちばかりです。だったら彼らが息を合わせればいい音楽ができると思っていたわけです。しかしそれはどうやら遠いい将来に実現するであろう理想の境地のことでした。現実には無理なことだと気付き始め、逆に指揮者の存在に興味を持つようになったのです。指揮者によってオーケストラの響きはもちろん、音楽そのものまでが変わってしまいます。指揮者によって音楽に息が通い、まとまりが生まれ、音楽が言いたいことがくっきりしてくる現実を何度も目の当たりにしたからです。

 そんな時フリッチャイとの出会いがありました。今まで何百回と聞いてきたシューベルトの未完成交響曲をフリッチャイの指揮で聞いたのです。目から鱗でした。指揮者によってこんなに違うのだという劇的な出会いでした。音楽の深みという言い方は抽象的です。音楽の深みは優雅さです。品格です。フリッチャイの指揮で響くオーケストラの音は大げさな表現とか奇を衒ったところが全くなく、淡々と、しかしこの交響曲にふさわしい静かな緊張感を感じさせるのです。優雅さと言う言葉を使いましたが、貴族好みから言っているのではなく、音楽の持つ品格ということを言いたかったのです。品格について語り始めると長くなりますが、芸術、工芸品にあってはこの品格は中核をなしていて、見る人聞く人の心を魅了するのは、よく言われる完成度ではなく、この品格だからです。どんな分野でも一流品には必ず品格が備わっているもので、そこから作品が見る人に、聞く人に語り始めるのです。 

フリッチャイは白血病で49才で亡くなります。亡なる直前に行ったスメタナのモルダウのリハーサルの様子が、南ドイツ放送でテレビ放映のために録画されていています。前の日まで、このリハーサルを断わらなければならないと思っていたそうです。フリッチャイは最後の力を振り絞って指揮台に立ち、数々の名言をちりばめながら南ドイツ放送交響楽団、現在のシュトゥットガルト放送交響楽団、とモルダウを音楽にして行きます。音楽が心を持った生き物だということがこのリハーサルから伝わってきます。死をはっきりと意識していたのでしょう、人生を褒め称えるような言葉が飛び交います。Great Conductors in Reheasal(名指揮者たちのリハーサル)というDVDに収められています。テレビで放映されたのは彼の死後のことでした。現在You tubeではそのリハーサルの次の日のコンサートの様子を見ることができます。

 

西洋の音楽家の中に東洋思想を具現しているような人がしばしば現れます。そのことを常々不思議に思っているのですが、フリッチャイもその一人です。その人たちの演奏によって東洋と西洋という水と油のような溶け合わない関係が昇華され、音楽は一つ次元の高いものに生まれ変わります。ここで大きな役割を担っているのは静けさです。静けさにあまり形容詞をつけるのは本末転倒かもしれませんが、豊かな静けさ、透明な静けさくらいは言ってもいいような気がしています。

フリッチャイは音楽とイメージ的な関係を作ります。自己表現に陥りがちな音楽がそれによって救わます。とてもしなやかで繊細な関係です。音楽の中に沈潜し深いところで音楽と出会ってそこからイメージを作ってくるという作業です。音楽は抽象的なものになりがちです。抽象的な美しさ、技巧的な正確さに酔ってしまう音楽家が多いですが、それは音楽ではなくはまだ練習です。フリッチャイの音楽は、真水のように透き通っています。彼の繊細さは非常に謙虚で、目立たないものですから、そこに気づくには時間がかかるかもしれません。音楽がどう響きたがっているのかを引き出そうとします。それをオーケストラの演奏家たちに伝え、イメージの助けを借りて一緒に音楽にしてゆくのです。言葉にしてしまえば、そんなことは他の指揮者たちだってしていると言われてしまいますが、彼の人柄から生まれる、優しさ、丁寧さ、暖かさ、何よりも謙虚さはやはり彼独自のものだと思っています。私は音楽が暖かいものだということをフリッチャイにたくさん教えてもらいました。

この優雅とか品格の域に音楽が達すると、音楽は突然静けさを帯びてきます。この静けさ、音楽に中心があるという言い方でもいいと思います。逆に、静けさはいつも中心を持って存在しているとも言えます。ここが、私にとって、音楽を聴くときの一番の醍醐味です。静かなのに気迫に満ちていて、圧倒されるのです。音量的に大きな音が出ていても、音楽そのものは静けさの中にあるのです。力強い静けさです。フリッチャイが指揮する全ての音楽がこの静けさをたたえているのです。彼の指揮に、瞬間瞬間音楽が生まれてくると感じている人が多くいます。スメタナのモルダウのハーサルの様子が耳で聞かれ、目で見られることを幸せと感じているのは私だけではありません。泉から湧き出した水がだんだんと大きな流れになってゆくモルダウの様子をフリッチャイは美しい言葉で説明していました。それを聞いた時体が震えました。そしてそれがだんだんとリハーサルの中で音楽にまで浸透してゆく様子を目の当たりにした時、音楽と人生とが一つになっていました。

 

リハーサルの中には印象に残る言葉がフリッチャイの口から飛び出します。その一つは、弦のパートとホルンのパートが交錯するところで、弦の人たちに向かって「ホルンは呼吸をしなければならないので、弦楽器のように行かないことがありますから、そこでは私の指揮を見るのではなくホルンの音をよく聞いてください。そっちの方がずっと大事です」というくだりです。フリッチャイの力量を改めて認識したところです。

彼は自分が指揮台に立って指揮していることをしっかり意識して指揮をとっています。それを誇りに思っています。しかし指揮者はそこに居て、居ないということもよく知っている人でした。指揮者を極めてゆくと指揮者は消えてしまうこともよく知っていたと思うのです。

 

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