ピアニッシモ

2015年10月5日

仲さん窓口の通信をピアニッシモと名付けています。

ピアニッシモという言葉は音楽用語で、演奏者に対して作曲者が「ここはピアノ(静かに)よりもさらに静かに」というときに、ピアニッシモ、pp、が用いられます。ですから、まず私たちが語りたいことがあるとき、ピアニッシモで語りましょうということなのですが、もう一つ意味を添えたいと思います。通信で使っているピアニッシモというのは、心の中の微かに聞こえる声に、ピアニッシモ声に耳を傾けるという意味でもあるのです。

もちろんこのように、心の中でピアニッシモで語っているかすかな声に耳を傾けるという意味でピアニッシモという言葉を使うのは特殊な使い方になると思います。

 

心の中でピアニッシモで語っているものがあります。

ご存知でしたか。 

心に耳を傾けて見てください。

どうやるのか知りたいのですね。

まず沈黙です。

自分から語ることをやめること、そして外のことに注意を向けないことです。

だんだんた自分の中に意識が向いてゆきます。

準備ができました。

 

まず聞こてくるのは自分の要求です。あれがしたい、なにが食べたい、あれが欲しいというやつです。

これは日常生活に頻繁に出没するもので、耳をすませなくても聞こえるほどのものです。ですからそれが自分だと私たちは思ってしまいがちです。

その自分は欲ですから、欲に振り回されているだけで、満たされることがありません。最後には疲れてしまいます。そのときの疲れは空虚感です。自分だと思っていたのに、実は自分の姿をしたものにすぎず、その仮の姿に振り回されただけなのです。

間違いなく自分の一つの姿ですが自分というのはそれで全てではありません。

 

さらに沈黙を深めてください。

その自分に見えた欲から少し解放されます。しばらくすると別の自分が見えてきます。

今度は自分が誰か知りたがっています。自分とは誰なのか、この問いかけは高く評価されています。そのために「自分探し」というテーマでセミナーが随所で開かれています。自分に出会いたいという願いを実現するためのセミナーなのでしよう。難しそうですが、きっと多くの人が知っているに違いありません。みんな自分のことが知りたいのです。

実はこれも、欲です。

人間というのは自分のことを説明したがっているモノなのです。

別の言い方をしてみます。私たちは自分についてそれぞれにイメージを持っています。「私って 何々なの」「俺はこういう人間だ」というような言い方は、それぞれの人が自分に対して持っているイメージです。あるいは自分を自分で説明したいのでしょう。それはそれで自分なのでしようが、他の人がその人に対して持っているイメージと比べると、それは本人が持っているイメージと全然違っていることが殆どです。「あの人は私をあんな風に見ていたのだ」ということ、矛盾しています、でも皆さんもよく経験していると思います。

自分を「こうだ」と説明して、挙句の果てに自分はこうだ決めつけるわけですが、そうやって生きるのは実は便利なのです。余計なことを言いますが、これは男性的です。一つの処世術です。でも融通の利かない頑固な人間を作ることになってしまいます。要注意です。自分のことをよく知っているようで、ただ頑なに決めているだけなので、はたから見ると窮屈です。

同じように他人を「あの人はこうだ」と決めつけるのも便利なものですがとても危険です。これは女性的かもしれません。

 

私たちの自分というのはそんなに固定化したものではないのです。流動的なものだと思います。自分というのはそんなにはっきり見えたり聞こえたりはしないものです。

私は食事のときにスープが欲しいタイプです。スープはその後の食事を受け入れるための準備だと思っています。ところがおいしいスープ、スープの後の食事が美味しくなるようなスープはなかなか出会えないものです。私の生きているドイツではスープは塩っ辛い飲み物です。それを頂いてしまうと、喉が渇いて仕方がないのです。スープは味がしないくらいのものが好みです。しかししっかりとお出汁が効いていなければなりません。そしてスープをいただいた後で、初めて「今のスープは美味しかった」と言えるくらいのものが上等なスープだと思っています。ところが大抵のスープは濃い味で、口に入れた瞬間にしっかり味がするのです。これは食事としては低級です。味というのは、刺激ではないので、そんなに強烈に印象を残さなくてもいいのです。

 

人間の自分というのも、今のスープのようなもののような気がしています。

自分だと思っているものはそんなに表面に出てくるものではないのです。

自分というのは無味の味などという言い方があるように、わからないものなのです。

わからなくて良いのです。

それでもちゃんと存在しているのです。ピアニッシモで存在しているのです。

 

私たちが本当に出会いたいと願っている自分というのは心の奥底で微かに、ピアニッシモで語り、ピアニッシモで存在しています。とても静かです。

静かというのは人間の本質です。

ですから騒がしい日常生活の中では大抵は聞き逃してしまいます。

多分それでいいのです。

 

私たちはただ日常生活を満たすだけの存在ではありません。

もしそういうものとみなされるのならば、それはとても残念なことです。

あるいは、それでいいとするのであれば、人生とは一日一日、毎日をただ積み重ねて行くだけのものということになってしまいます。

そこに満足できないものが私たちの中にあるのです。

人間の精神性です。

 

微かな声に耳を傾けられるかどうかが問われているわけですが、一つだけ言わせてもらうと、それを聞こうと耳を傾けても聞こえるものではないということです。積極的に聞こうとするのはいいことですが、聞くというのは受身的な要素を多く持っているものです。ですから聞こえてくるようになるというべきかもしれません。

自分というのが微かな、ピアニッシモで語っているのは確かです。自分は確実に存在しています。ところが、それを聞こうと聞き耳を立てても聞こえないものなのです。向こう任せなのです。そういうものがあるのです。私たちが出会いたいと思っている自分とはそういう類のものと思っていいと思います。

ピアニッシモで語っているものがある、ある日それを聞くことができるようになるかもしれない。

ぼんやりするしかないのです。

ガツガツ聞こうとしても聞こえないのです。相手は、それは自分なのですが、ピアニッシモでしか語っていないのです。

私たちピアニッシモ一族の修行とは、修行に精を出している人から見たら「イイカゲンナモノナノデス」。

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