悟らなかった聖者
私の偏見かもしれませんが昨今はどうも悟りブームのような気がしてならないのです。
悟りがブームというのもおかしな言い方ですが、多くの人が悟りに走っているように見えて仕方がないのです。悟りたがっていると言ってもいいかもしれません。
だからどうだというわけではないのですが、気にはなっているのでそのあたりを書いてみます。
もともと私は悟りには興味がなかった人間だったようです。悟りたい、間が差してそんなことを思ったことがあるかもしれませんが、真剣に悟ろうと思ったことはありません。もちろんそのための修行もしていません。悟れないとわかっていたからかもしれません。そもそも怠け者で修行という類のものとは肌が合わないこともありました。
悟りと対になっているのは昔から修行です。修行を積んで始めて悟りがあるということでした。
最近のブームになっている悟りはこの修行が抜けているようなのです。修行を抜きにした悟りのように見えます。少し不自然です。そんなことを気にするのはわたしが古い人間だからかもしれません。
開き直って言わせてもらいますが、悟ってどうなるのでしょう。
悟とは分かることです。
つまり今の悟りブームは分かりたいということが根底にあると睨んでいます。
また開き治りますが、分かってどうなるのでしょう。
分かってしまったらもうおしまいだと思うのですが、そう思うわたしがおかしいのでしようか。
私はわ分かないでいる時が一番ワクワクしている人間ですから、分かってしまったらつまらないではないかと反論したくなるのです。
悟りたいというのは戦後の教育の成果とみてはどうでしょう。
学校では分からないというのが許されないことでした。分かろうとすることは大事とされていましたが、分からないと言えることの大切さは教えられませんでした。とても大事なことなのにそんな空気はありませんでした。分かったふりというのもあります。そんな嘘はいずれ尻尾が出てしまいますから意味のないことです。分からないときは堂々と分からないと言うべきです。それを教育は教えてこなかったような気がします。分からないでいることに耐えられない気質が学校教育の中で培われてしまった結果、人生の中にあっても分からないというのは恥ずかしいこととなってしまったのかもしれません。ですから分かりたいのです。その延長が悟りたいかもしれません。
今の悟りブームからは宗教の香りがしません。無宗教の悟り、きっとそれをスピリチュアルと呼ぶのでしょうが、私には安易な霊能力で悟ろうとしているように見えて仕方ありません。そもそも霊能力と悟りとは全く結びつかないもののはずです。
私は長年ルドルフ・シュタイナーという人間に興味を持っています。
彼のことを神秘主義者と呼ぶ人もいれば、霊能力者と呼ぶ人もいれば、普通に思想家と呼ぶ人もいます。教育改革者、医療改革者、農業改革者でもあります。実にたくさんの顔を持っている人です。
私は個人的には言葉の魔術師と見ています。彼の含蓄のある言葉、言い回しを噛みしめていると、彼には一つの大切なモチーフがあったことに気が付きます。
悟らない、これが彼のモチーフです。悟れなかったのではなく、悟らなかった。悟ろうともしなかった。
彼を終生貫いている、決して簡単に分かろうとはしない、つまり分からないものをいつまでも分からないと言える潔さに感動を覚えます。
分からないことには意味があり、それはまた美しいことだと私はシュタイナーから学んだのです。
彼は、悟らなかった聖者。
私は彼をそう呼んでみたくなります。