一月六日に寄せて、三賢者からのブレゼント
一月六日はキリスト教文化圏では宗教的な祝祭の日です。
二つの言い伝えがこの日に重なっています。一つは三賢者が東方からやってきて、イエスの誕生をそれぞれがお土産を持参して祝福した日。もう一つはこの日に洗礼のヨハネがイエスを洗礼したことになっていますから、イエス洗礼の日です。
さらにもう一つ付け加えると、その日をもってクリスマスイヴから始まったクリスマスという行事は終了します。クリスマスは1日だけのことではなく、聖なる12夜というひとくくりのあるお祭りなのです。
余談ですが、こんな大切な日なのに、この日が休日になるかどうかは、ドイツの場合州の判断によって異なるのです。南ドイツのカソリック系の州では休日ですが北ドイツのプテスタント系の州では何もなかったかのように普通の日なのです。
私はこの日に考えることが一つあります。去年も一昨年も似たようなことを、そのとき近くにいた人たちと話した覚えがあります。
ブレゼントってなんなのかということです。贈りものをするというのは本当は、現代人がプレゼントごっこをしているレベルとは違うと思うのです(プレゼントにふさわしいアイテムを揃えたブティクも随分あります)。
もう少し深い意味があるだろうと思っています。
存在への感謝があって初めて行われると考えています。少し大袈裟でしようか。自分が存在していることへの感謝と今目の前にいる人が存在していることへの感謝があってプレゼントが生まれたのではないか、そんなふうに考えるのです。
しかし社会的な処世術の方便としてプレゼントは形を変えながら発展してきたように思います。実に微妙な入り組んだ形を見ることができます。高級時計の売れ具合でその社会の経済の様子を測定することもできるとある統計の専門家から聞いたことがあります。闇プレゼント、賄賂です。
英語ですからpresentです。元々の意味は「目の前にある」「ものを目の前に差し出す」。発音やアクセントの位置が変わるものの基本的な意味は同じところにあると思っています。
文法では現在形の意味で使われ、勉強会や会議などではプレゼンテーション、人前で自分の研究を発表することですが、これもプレゼントと関係しています。
文法の現在形というのに焦点を当ててみます。
現在というのは今ということです。現在形は今のことを述べ、描写しているのですが、よく見るとそうとも限らないようです。
行きつけのパン屋さんは朝6時からやっているというとき、現在形が登場します。毎日、定休日以外は、6時にお店が開くといっているのですから、現在形は「いつも」ということでもあるのです。
今(現在)といつも(永遠)とは同じ言い方が使われるのです。
人間の存在、つまり生きていると感じることは、言葉で説明されて納得の行くものではないと思っています。
行動として現れなければ意味をなさないことだと思うのです。何かの行為がそこになければ机上の空論です。自分が存在しているのは自分だけの力ではない、今目の前にいるものの存在によっていると考えてはどうでしょうか。それに感謝することがブレゼントとみてはどうでしょうか。
プレゼントしたくなる人というのがいます。友達というのはそういう人のことをいうのかもしれません。