ターナーの光
ターナーの絵をどの様な言葉に置き換えたらいいのだろう ・・・
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絵の中の光は炸裂している。
ターナーは光に取り憑かれている様に見える。
光を描くことは絶対に不可能だということを知らない人のように。
でも不思議だ、確かに光が描かれている。
勿論危ない世界に近いのだから、しばらく見ていると気を失いそうになる。
そんな時にかすかに、片隅に愛情深く描かれた現実の一駒に、失いかけた意識が帰って来る。
昔、友人のたちとターナーを見に行った時のことを思いだしていた。
一人の女性が絵を見たとたん、逃げ出すように絵の前から立ち去って行った。
詳しいことは今でも解らないし、その女性とはその後一度もターナーの話しはしていない。
十秒くらいの僅かな時間の中の出来事で、それを目にした私の方が面くらってしまった。
その女性は、今思うと、外からの刺激に弱いタイプだった。
しかも何かにつけてヒステリー的に反応してしまう癖があった。
私ですからあの強烈な光の炸裂に動揺していたのだから、彼女は私の何倍も動揺していたに違いない。
そんな恐ろしい絵なのに、ターナーの絵にはターナーの絵からしか得られない静寂がある。
もしあの絵に額縁がなかったらどうだろう。
もしかしたらあの時の女性と同じ立場になってしまうかもしれない。
額縁に収まっていてくれてありがたかった。
その静寂に気がついた時、静寂は今まで知らなかった安堵感にかわっていた。
この様な体験は他で感じたことがない。
絵の常識を超えた絵、彼以前にも以後にもターナーの境地から絵は生まれていない。
比較をしても意味のないことだが、唯一、マーラーの音楽に似ているといいたい。
ターナーの描く光には、破壊と肯定が感じられる。
ただマーラーの場合はすこし違う。
マーラーの人生は辛かった様だ、伝記を読むとそんなことを感じてしまう。
悲しみから、生きることを肯定するプロセスがターナーとは違う。
マーラーのアダージョの中の音の光からは言葉が聞こえてくる。
そろそろ還暦の年が終ろうとしている。
今年一年を振り返ると、炸裂する光みたいに、今までの人生の全てが粉々になった。
そんな心境の中で再び目にすることができたターナーだった。
ターナーの再生する光はとても励みになった。